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淡々晋書  作者: ンバ
第百一、劉元海載記
85/313

十一、高祖に倣わん

11.

東嬴公騰使將軍聶玄討之,戰於大陵,玄師敗績,騰懼,率并州二萬餘戶下山東,遂所在為寇。元海遣其建武將軍劉曜寇太原、泫氏、屯留、長子、中都,皆陷之。二年,騰又遣司馬瑜、周良、石鮮等討之,次於離石汾城。元海遣其武牙將軍劉欽等六軍距瑜等,四戰,瑜皆敗,欽振旅而歸。是歲,離石大饑,遷于黎亭,以就邸閣穀,留其太尉劉宏、護軍馬景守離石,使大司農卜豫運糧以給之。以其前將軍劉景為使持節、征討大都督、大將軍,要擊并州刺史劉琨于版橋,為琨所敗,琨遂據晉陽。其侍中劉殷、王育進諫元海曰:「殿下自起兵以來,漸已一周,而顓守偏方,王威未震。誠能命將四出,決機一擲,梟劉琨,定河東,建帝號,鼓行而南,克長安而都之,以關中之眾席捲洛陽,如指掌耳。此高皇帝之所以創啟鴻基,克殄強楚者也。」元海悅曰:「此孤心也。」遂進據河東,攻寇蒲阪、平陽,皆陷之。元海遂入都蒲子,河東、平陽屬縣壘壁盡降。時汲桑起兵趙魏,上郡四部鮮卑陸逐延、氏酋大單于征、東萊王彌及石勒等並相次降之,元海悉署其官爵。


(訳)

東嬴公とうえいこう司馬騰しばとうは将軍の聶玄じょうげんを遣って

元海の討伐に当たらせ

大陵たいりょうに於いて戦ったが、

聶玄の師団は敗北を重ねた。


おそれた司馬騰は、并州へいしゅう

二万余戸を率いて山東へ下り、

かくて所在でわざわい(略奪)を為した。


元海は建武けんむ将軍の劉曜りゅうようを遣って

太原たいげん泫氏げんし屯留とんりゅう、長子、中都を攻撃させ

これらの拠点を全て陥落させた。


永興えいこう二年(305)、

司馬騰はまた司馬瑜しばゆ周良しゅうりょう

石鮮せきせんらを元海の討伐に派遣し、

彼らは離石りせき汾城ふんじょうに宿営した。


元海は、武牙ぶが将軍の劉欽りゅうきん

六軍に司馬瑜らを拒がせた。

四戦して司馬瑜は全て敗れ、

劉欽は軍を整えて凱旋した。


この年、離石で大飢饉が起こったため

黎亭れいていうつり、邸閣ていかくから穀物を集めた。

太尉の劉宏りゅうこう・護軍の馬景ばけい

離石に留めて守衛させ、

大司農の卜豫ぼくよに糧秣を運ばせて

劉宏・馬景への補給に当たらせた。


前将軍の劉景を

使持節・征討大都督・大将軍とし、

并州刺史の劉琨りゅうこん

版橋(板橋)に要撃(待ち伏せ)させると

劉琨は敗れる所となり、

かくて晋陽しんように拠った。


侍中の劉殷りゅういん王育おういくが進み出て

元海を諌めて述べた。


「殿下が自ら挙兵されて

已に一年が経過しておりますが、

領土は一地方に偏っており

王威は振るわれておりません。


実際に部将にお命じになり

四方へ進出させれば、一挙に機を決し

劉琨の首を獲り、河東を定め、

帝号を建て、太鼓を打ち鳴らして南下し

長安を奪取して、都と出来ましょう。


関中の者達を以て洛陽を席捲せっけんする事は

てのひらで指図をするかの如く(容易)です。


これこそ、高皇帝(劉邦)が

鴻業こうぎょうの基礎を創始され、

屈強なる楚の者(項羽)に

勝利を収められた所以にございます」


元海は喜んで言った。


「それこそ孤の考えていた事よ」


かくて進軍して河東に拠り、

蒲阪ほはん平陽へいようへと侵攻し、いずれも陥した。


元海は遂に都へと入り

(匈奴漢の都の平陽に入った?)

蒲子ほし,河東、平陽に属する

県の塁壁るいへきは、盡く投降してきた。


時に汲桑きゅうそう趙魏ちょうぎにて挙兵し、

上郡四部の鮮卑である陸逐延りくちくえん

氐族の酋大単于の征、

東萊とうらい王弥おうび、及び石勒せきろくらが揃って

相次いで漢に降ってきたため、

元海は彼らの悉くに官爵を署した。


(註釈)

296年にてい族の

アホちゃいまんねん、斉万年さいまんねん


そして304年には

劉淵が離石で自立して「漢(前趙ぜんちょう)」を称し、


斉万年の反乱と飢饉で乱れた益州では

李特りとくが自立の動きを見せ、子の李雄りゆう

306年に「大成たいせい成漢せいかん)」を建国。




落ち目の西晋を見限って

各地で異民族の反乱が続出しました。


劉淵と李雄、いずれも

異民族の王朝なのに、

「漢」を名乗るあたりが面白い。




西晋側は307年に恵帝が崩御し、

(毒殺された説あり。……誰が?)

武帝(司馬炎)の25子で、当時23歳の

懐帝・司馬熾しばしが即位。


八王の乱を鎮圧した司馬越しばえつ

どうにか屋台骨を支えてはいるものの

皇帝との仲は芳しくない、という

惨憺たる状況でした。


并州を陥落させ、

日の出の勢い劉淵の傘下には

各地から豪傑が集い、西晋は

なすすべも無く追いやられてゆきます。



304年の劉淵独立から、

316年の長安陥落まで、

西晋が異民族に蹂躙され

中原が麻のように乱れていく

一連の出来事を、年号に準じて

永嘉えいかの乱」と呼びます。


(永嘉年間は307〜312年)



洛陽などは阿鼻叫喚の

地獄絵図と化したようで、

純正漢民族が中原を支配する構図は

ここに終わりを告げるのでした。


永嘉の乱の戦火を避け、東や南へ

亡命した人々が、後年になって

新政権を樹立していきます。

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