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淡々晋書  作者: ンバ
第百一、劉元海載記
84/313

十、所信表明演説

劉淵と振り返ろう

漢王朝440年の歴史──


10.

永興元年,元海乃為壇於南郊,僭即漢王位,下令曰:「昔我太祖高皇帝以神武應期,廓開大業。太宗孝文皇帝重以明德,升平漢道。世宗孝武皇帝拓土攘夷,地過唐日。中宗孝宣皇帝搜揚俊乂,多士盈朝。是我祖宗道邁三王,功高五帝,故卜年倍于夏商,卜世過於姬氏。而元成多僻,哀平短祚,賊臣王莽,滔天篡逆。我世祖光武皇帝誕資聖武,恢復鴻基,祀漢配天,不失舊物,俾三光晦而復明,神器幽而復顯。顯宗孝明皇帝、肅宗孝章皇帝累葉重暉,炎光再闡。自和安已後,皇綱漸頹,天步艱難,國統頻絕。黃巾海沸於九州,群閹毒流于四海,董卓因之肆其猖勃,曹操父子凶逆相尋。故孝湣委棄萬國,昭烈播越岷蜀,冀否終有泰,旋軫舊京。何圖天未悔禍,後帝窘辱。自社稷淪喪,宗廟之不血食四十年於茲矣。今天誘其衷,悔禍皇漢,使司馬氏父子兄弟迭相殘滅。黎庶塗炭,靡所控告。孤今猥為群公所推,紹修三祖之業。顧茲尪暗,戰惶靡厝。但以大恥未雪,社稷無主,銜膽棲冰,勉從群議。」乃赦其境內,年號元熙,追尊劉禪為孝懷皇帝,立漢高祖以下三祖五宗神主而祭之。立其妻呼延氏為王后。置百官,以劉宣為丞相,崔游為御史大夫,劉宏為太尉,其餘拜授各有差。


(訳)

永興えいこう元年(304)、元海はかくて

祭壇を設けて南郊し、

僭称して漢王の位に即き

配下に命じて言った。


「昔、我が太祖高皇帝たいそこうこうてい劉邦りゅうほう)は

神の如き武を以って期に応じ

王朝の大業を創始され

太宗孝文皇帝たいそうこうぶんこうてい劉恒りゅうこう)は明徳を重んじ、

漢の王道を泰平へとのぼらせ、

世宗孝武皇帝せそうこうぶこうてい劉徹りゅうてつ)は

夷狄いてきはらって国土を切り拓き

その領地は唐日(ペルシャ方面?)を越えた。


中宗孝宣皇帝ちゅうそうこうせんこうてい劉詢りゅうじゅん)は

俊傑を求めて抜擢し

数多の人士が朝廷に溢れた。


このように

我が祖宗の道義は※三皇をぎ、

功績は※五帝よりも高く

(※三皇五帝=古代中華の伝説の君主)


故に漢の伝国の年数はしょうに倍し、

経過した世代は姫氏(周の君主)を

超えることとなったのである。


しかるに元帝げんてい成帝せいてい僻見へきけん多く

哀帝あいてい平帝へいていの皇祚は短く、

賊臣王莽(おうもう)滔天とうてんの勢いで背反した。


我が世祖光武皇帝せそこうぶこうてい劉秀りゅうしゅう)は

聖なる勇武の英資を持って誕生され、

鴻業こうぎょうもとい快復かいふくされて

漢の祭祀を天に配し、旧物を失われずに

くらくなっていた三帝の光華と

かすかとなっていた神器とを再び輝かせた。


顯宗孝明皇帝けんそうこうめいこうてい劉荘りゅうそう)と

肅宗孝章皇帝しゅくそうこうしょうこうてい劉炟りゅうたつ)は

代々その余光を重んじ、

漢の炎光は再び広まった。


和帝わてい劉肇りゅうちょう)・安帝あんてい劉祜りゅうこ)の後

皇綱こうこうは徐々に衰退してゆき、

天子の歩みは艱難かんなんに見舞われて

国家の統治は根絶に瀕した。


(後漢の末期に)

黄巾こうきんが九州にて沸き起こり

宦官どもは四海に荼毒とどくを垂れ流し、

董卓とうたくはこの混乱に乗じて

暴虐を欲しいままとし、

曹操親子は凶逆の機会を窺った。


故に孝湣こうびん献帝けんてい劉協りゅうきょう)は万国を委棄し

昭烈しょうれつ劉備りゅうび)は遠く岷蜀びんしょくまで流浪して、

泰平を全うするのではなく、

旧都の奪回をこいねがった。


しかし、天は何故に禍害を

悔やむ事なく計らったのか、

後帝(劉禅りゅうぜん)は

(曹魏に降伏するという)

屈辱に苦しむ事となった。


漢の社稷が喪われてより

宗廟の祭祀は、ここに於けるまで

四十年間途絶えてしまっている。


今天は、そのような偏りを誘発させて

漢の皇統を絶やしてしまった事を悔やみ、

司馬氏の父子・兄弟を次々と

相互に残滅させている。


黎庶れいしょ(庶民)は塗炭の苦しみに遭い、

(晋の暴虐を)告発する所に風靡する。


わたしは今、卑しき出自ながら

群公に推戴される所となり、

三祖(劉邦・劉秀・劉備?)

の事業を修め、ぐ事となった。


我が身を顧みるに、惰弱蒙昧で

自身の安寧を危ぶんではいるが、

ただ、大いなる恥辱をすすぐことなく

社稷に主無き有様に

艱難を恐れずに奮い起ち、

衆望に従いて、励もうぞ」


そうして境内にて大赦を行い、

この年を「元熙げんき」と号して

劉禅に「孝懐皇帝こうかいこうてい」の尊号を追謚し、

漢の高祖以下、三祖五宗を

神主として、これを祀った。


妻の呼延こえん氏を立てて王后とし、

百官が配置して

劉宣を丞相、崔游さいゆう御史大夫ぎょしたいふ

劉宏りゅうこうを太尉として、

残りの者達にもそれぞれ

差を付けて官職を拝受させた。


(註釈)


訳すのキツかったけど、

歴代漢帝揃い踏み!!

テンションの上がる演説です!!


「武帝が夷狄いてきはらって…………」

とか言ってますが、

発言してる劉淵も夷狄なのがちょっと面白い。




三国志のはじめの方で

黄巾の乱が起こったとき、

大抵の英雄たちが

「漢王朝の復興!」とか

「漢への忠義!」なんかを

スローガンに戦っていました。



秦や新は15年で滅んでしまったし、

殷や周の時代はもう昔すぎて馴染みがない。

魏はあまり民衆に優しくなかったし、

晋は内ゲバでガバガバで印象が悪い。


この時代の「統一王朝」というと

当代の人々が頭に思い浮かべるのは

やっぱり漢王朝なのです。



劉備の蜀漢も頭数に含めると

304年当時は、既に

漢が断絶してから41年。


劉淵は再び、

この「漢王朝」の名望を恃んで

建国の大義名分としました。


「俺は匈奴だけど、匈奴は昔

漢王朝と兄弟の盟約を結んだから、

俺も漢の後継を名乗っていいでしょ?」


という感じで、

三国志の時代に逆行しつつあります。




三祖五宗を祀ったとあるので

祀られたのは下記の8人です。


高祖・高皇帝  劉邦(前漢初代)

世祖・光武皇帝 劉秀(後漢初代)

烈祖・昭烈皇帝 劉備(蜀漢初代)


太宗・文皇帝  劉恒(前漢5代)

世宗・武皇帝  劉徹(前漢7代)

中宗・宣皇帝  劉詢(前漢9代)

顕宗・明皇帝  劉荘(後漢2代)

肅宗・章皇帝  劉炟(後漢3代)



こうして見ると、

劉秀と劉備の二字の諡号は貴重。


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