九、匈奴漢誕生②
9.
王浚使將軍祁弘率鮮卑攻鄴,穎敗,挾天子南奔洛陽。元海曰:「穎不用吾言,逆自奔潰,真奴才也。然吾與其有言矣,不可不救。」於是命右於陸王劉景、左獨鹿王劉延年等率步騎二萬,將討鮮卑。劉宣等固諫曰:「晉為無道,奴隸禦我,是以右賢王猛不勝其忿。屬晉綱未馳,大事不遂,右賢塗地,單于之恥也。今司馬氏父子兄弟自相魚肉,此天厭晉德,授之於我。單于積德在躬,為晉人所服,方當興我邦族,復呼韓邪之業,鮮卑、烏丸可以為援,奈何距之而拯仇敵!今天假手於我,不可違也。違天不祥,逆眾不濟;天與不取,反受其咎。願單于勿疑。」元海曰:「善。當為崇岡峻阜,何能為培塿乎!夫帝王豈有常哉,大禹出於西戎,文王生於東夷,顧惟德所授耳。今見眾十餘萬,皆一當晉十,鼓行而摧亂晉,猶拉枯耳。上可成漢高之業,下不失為魏氏。雖然,晉人未必同我。漢有天下世長,恩德結于人心,是以昭烈崎嶇於一州之地,而能抗衡於天下。吾又漢氏之甥,約為兄弟,兄亡弟紹,不亦可乎?且可稱漢,追尊後主,以懷人
望。」乃遷于左國城,遠人歸附者數萬。
(訳)
王浚は将軍の祁弘に
鮮卑を率いさせて鄴を攻め、
敗れた司馬潁は、天子を挟んで
南の洛陽へ奔走した。
元海は言った。
「司馬潁は吾の進言を用いず
逆に自ら潰走することになった。
これこそ真の奴の才である。
しかし、吾は助けると言った手前
救援しないわけにはいかぬ」
そこで、左右(側近)の
陸王劉景、左獨鹿王の劉延年らに
歩兵騎兵二万を率いさせて
鮮卑を討伐しようとした。
劉宣らは断固諫めて、こう言った。
「晋王朝は無道を為して
奴隷に我々を御し、
その事に、右賢王の劉猛は
怒りを抑えられなかった。
晋に属する綱紀は緩んでおらず、
大事を遂げられずに
右賢王は一敗地に塗れたが、
これは単于の恥である。
今、司馬氏の父子兄弟は
自ら互いを※魚肉としているが、
(※まな板の上の鯉的な意味)
これは、天が晋の徳を見放して
我々に天運を授けようとしているのだ。
単于は躬らに積み重ねた徳があり、
晋人すらも帰服させてきた。
まさに、一族と国と興し
呼韓邪単于の事業を復活させて
鮮卑・烏丸を援助すべきである。
どうしてこれを拒いで
仇敵(晋)を救援しようというのだ!
今、天は我々に手を貸してくれている、
違えることなどできないぞ。
天意を違えるのは不吉で、
逆に我々が無事では済まぬ。
天が与えしものを受け取らねば
反対にその咎を受けることになる。
願わくば単于よ、
このことを疑うことのなきよう」
元海は言った。
「善し。
これから岡阜(国家という大山)を
打ち建てようという時に
どうして培塿(小山)を為せようか。
そもそも帝王が
どうして常なるものであろう、
大禹は西戎の出身で
周の文王は東夷の生まれであり、
ただその徳を顧みられて
天運を授かることになっただけである。
今、十万余りの軍勢が見参し、
各々が一人で晋の十人に相当する。
鼓行して晋の乱れを摧き
その衰えを拉ぐのみ。
上の成果ならば、漢の高祖(劉邦)の
事業を成し遂げられ、
下の成果でも、曹氏(魏の曹操〜)に
劣ることはあるまい。
しかれども、晋の人間は
必ずしも我と同様ではない。
漢の天下の時代は長く(約400年)
その恩徳は人心に結びついており、
だからこそ昭烈(劉備)は
一州のみの領地(益州)に
崎嶇(苦難)しつつも
天下を争うことができた。
吾もまた漢氏の甥であり
兄弟の盟約を為している。
兄が滅べば、弟が紹ぐことに
また何の問題があろう?
(我らの国家は)
「漢」を称するべきだろう。
後主(劉禅)に尊号を追謚して
人望を懐附させよう」
そうして左国城へ遷り、
遠方から帰属する者が数万に及んだ。
(註釈)
唐の時代に、
「武廟六十四将」という
当時の歴史家が選出した
各時代の名将セレクションが
あるのですが……
西晋から選ばれているのは
対呉で活躍していた
羊祜・杜預・王濬の3人でした。
選抜には漏れてるものの
馬隆、苟晞、王浚、劉琨なども
かなりの実力者です。
特に王浚の存在には、劉淵も石勒も
かなり手を焼くことになります。
王浚の擁する鮮卑族、
拓跋部もメチャクチャに強く、
後に、五胡十六国時代を終焉させた
「北魏」を建国する事になります。
話を劉淵の即位に戻して。
ようやく司馬潁のもとを離れて
本拠地の離石へと戻ってきた劉淵。
さっきまでべた褒めしてたのに
急に司馬潁をこき下ろす
二枚舌、たまらんぜ!!
でもよく考えてみると変です。
劉淵は司馬潁に
鄴に留まるのを勧めたのよね?
で、劉淵の口車に乗せられて
とっとと洛陽に逃げなかったから
司馬潁は負けちゃったわけで。
劉淵が
「俺のいうことを聞かないからだ。
司馬潁はバカだなぁ」
と言ってるのはおかしい。
いうことを聞いたから負けたのに。
味方の手前だから
「あれは自分のせいじゃない」と
取り繕ったんでしょうか。
それとも「俺のいうこと」は
書かれてない戦術指南的な
ものだったのか。
でも結局劉淵は
一度助けに行くと言った手前
司馬潁を救援しようとしてます。
そこに劉宣じいさんの鶴の一声。
「おいおい、無道な晋を
倒すために挙兵しようってのに
なんで反対に味方しようとしてんだよ」
その時劉淵は思い出した。
虐げられてきた屈辱を……
籠の中に囚われていた恐怖を……
(進撃の巨人
劉淵のアイデンティティは
揺らいでいた筈です。
匈奴の出身だけど、
都で長い時を過ごすうちに
本格的に心根も漢民族になっていたのか。
没落した祖国を再建しようとする心と
晋に忠義を尽くそうとする心が
両立し得ないことに
今更気付いたのかもしれない。
晋を倒そうとしているのに
晋の味方をするのは
確かに、あべこべだ。
半分匈奴で、半分漢民族。
自分の精神構造の
アンバランスさに気付いた劉淵は、
司馬潁への義理を捨てました。
そして、劉淵から見て
劉邦>>>曹操という評価なのが
ちょっと悲しい…………
馬援の劉邦評、「可もなく不可もなく」
劉邦より多芸に秀でる人は沢山いるけど
劉邦より大きな仕事が出来た人はそういない。
劉淵は国号を「漢」にするくらいだから
劉邦の漢王朝に間違いなく
悪いイメージを持っておらず
劉姓である事に誇りさえ抱いていそう。
(司馬潁に封じられた食邑が
漢だったという理由も多分ある)
そんな漢室を私物化し、最終的に
滅ぼすことまでやらかした曹操は
印象がめっちゃ悪いのかも?
あと、
匈奴を5つに分けて
弱体化する直接的な契機を
作ったのも、曹操である。
また、劉淵の考え方で面白いのは
劉備の蜀漢を、前漢・後漢の
正当なる後継王朝と見なしていること。
廃位された蜀の劉禅に
「孝懐皇帝」を追謚したのです。
劉備よ。漢の祭祀を絶やさずに
あのクソ曹操によくぞ屈さず
抵抗し続けてくれた!とか思ってそう。
この15年ほど後に
中原を支配する怪物・石勒も
同様に曹操をこき下ろしています。
「孤児(献帝)に
狐のように媚びて天下を窺うなど
男のやることじゃねぇ」と。
主に漢室の臣下を謳いながら
王朝を転覆させたことに対してです。
漢の破壊者、曹操の悪名は
思っていたより後代に根強い?
禅譲を迫ったのはちなみに
曹操じゃなくて曹丕なんだけど
みんな曹丕忘れてるのが草。




