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淡々晋書  作者: ンバ
第一、宣帝紀
8/313

七、荊楚動かし易く安んじ難し

7.

魏武以荊州遺黎及屯田在潁川者逼近南寇,皆欲徙之。帝曰:「荊楚輕脫,易動難安。關羽新破,諸為惡者藏竄觀望。今徙其善者,既傷其意,將令去者不敢復還。」從之。其後諸亡者悉復業。


(訳)

魏武は、南からの賊が

間近に迫ってきているため

荊州の遺黎(亡国の民)及び

潁川えいせんの屯田兵をすべて

移住させようとした。


宣帝は言った。


「荊楚の者たちは軽佻けいちょう

動揺させるのは容易ですが

安定させるのは難しいものです。


関羽が敗れたばかりで

諸々の悪事を為す者共が

鼠竄そざんして観望しております。


今、そうした

善良な者たちを移してしまえば

その意を損なうこととなり

去った者は二度と帰ってこないでしょう」


魏武はこの意見に従った。


その後、諸々の逃亡者は悉く復業した。


(註釈)

ほんとシバえもんの言うことは

ぜーんぶ当たってますね。


曹操は兵や流民に田地を耕作させて

出来高をピンハネする(言い方)という

屯田制とんでんせいを大々的に始めたとされます。

(発案者は韓浩かんこうなど)


厳密には、軍屯ぐんとん民屯みんとんというのに

区別されるようですが、とにかく

合理主義の曹操らしい政策です。


その後たぶん

占田せいでん課田制かでんせい(西晋)

均田制きんでんせい(北魏)

班田収授はんでんしゅうじゅの法(飛鳥時代)

などに発展していったのではないか

と思われます。


占田・課田制は司馬懿の孫の

司馬炎しばえんが創始したものですが

わりとあっさり廃れたっぽくて

史料が全然残っていないそうです。

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