四、金日磾より、由余より
4.
咸熙中,為任子在洛陽,文帝深待之。泰始之後,渾又屢言之于武帝。帝召與語,大悅之,謂王濟曰:「劉元海容儀機鑒,雖由餘、日磾無以加也。」濟對曰:「元海儀容機鑒,實如聖旨,然其文武才幹賢於二子遠矣。陛下若任之以東南之事,吳會不足平也。」帝稱善。孔恂、楊珧進曰:「臣觀元海之才,當今懼無其比,陛下若輕其眾,不足以成事;若假之威權,平吳之後,恐其不復北渡也。非我族類,其心必異。任之以本部,臣竊為陛下寒心。若舉天阻之固以資之,無乃不可乎!」帝默然。
(訳)
咸熙年間(264〜265)に
任子(人質)となって洛陽に赴き、
文帝(司馬昭)はこれを厚遇した。
泰始年間(265〜274)の終わり頃
王渾はしばしば武帝(司馬炎)に
(元海を取り立てるよう)
具申した。
武帝は元海を召し寄せてともに語ると
大いに喜んで、王済に言った。
「劉元海の立ち振る舞いは模範的だ。
由余・金日磾すらも彼以上ではあるまい」
王済は対して言った。
「元海の立ち振る舞いが
模範的であることは
実に陛下の仰る通りです。
然もその文武の才幹は
二子(由余・金日磾)を
遥かに上回っております。
陛下がもし元海に
東南方面の事を任せたならば
呉会の地を平らげる必要はありませぬ」
武帝は「善し」と称した。
孔恂、楊珧が進み出て言った。
「臣どもが元海の才を見ますに、
当代には恐らく、比べる者がおりませぬ。
陛下がもしその衆(匈奴)を軽んじられれば
呉を討伐するだけに事は収まりません。
もし仮に元海が権力を振るえば
呉を平定した後は恐らく、
もう二度と北へは戻ってきますまい。
我々の族類ではないのですから、
必ずや異心を抱きましょう。
元海に本部隊を任せる件について
臣どもは密かに陛下のため、
心を寒くしております。
天険の要害(呉会)を、
挙ってやつに与えてしまうのは
避けるべきです」
武帝は黙りこくった。
(註釈)
仲良しの王渾の取り成しで、
皇帝・司馬炎(司馬懿の孫)
との謁見が叶った劉淵。
司馬炎は、劉淵の容姿や
立ち振る舞いを高く評価し、
春秋時代の由余
前漢時代の金日磾よりも
上だと称します。
(どっちも異民族だった人です)
劉淵とは馴染みのある
王渾の子の王済も、
「劉淵に呉の討伐を任せるべきだ」
と熱弁しますが、
孔恂、楊珧の二人はこれに猛反対。
冒頓の時代はたしかに
モンゴル帝国レベルの
領土を誇っていた匈奴ですが、
前漢中期に武帝にやられて、
後漢初期には南北に分かれ
時代を経て、魏の時代には
5つに分けられてだいぶ弱体化しました。
しかし、西晋の初期くらいには
戸数にして数万まで増えたようで、
この二人が危惧するのも
不自然ではない規模になっています。
「匈奴に集結するきっかけを与えたら
死にかけの呉なんかより
よっぽど恐ろしい脅威になるぞ」
という事なのですが、
司馬炎の子の司馬潁が後々
劉淵と匈奴を朝廷公認の自警団のような
立ち位置に置いてしまうのです。
この場では、とにかく
結果として劉淵は
出世の機会を潰されてしまった。
異民族だったから
という理由に一元化しちゃって
いいのかどうかは微妙ですが
少なくともそういった人種差別が
根底には間違いなくあったのです。
「非我族類,其心必異」
(我が族類に非ざればその心必ず異なり)
は、左氏伝出典です。




