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淡々晋書  作者: ンバ
第百一、劉元海載記
73/313

序文二

序文2.

漢宣帝初納呼韓,居之亭鄣,委以候望,始寬戎狄。光武亦以南庭數萬徙入西河,後亦轉至五原,連延七郡。董卓之亂,則汾晉之郊蕭然矣。郭欽騰箋于武帝,江統獻策于惠皇,皆以為魏處戎夷,繡居都鄙,請移沙塞之表,定一殷周之服。統則憂諸並部,欽則慮在盟津。言猶自口,元海已至。語曰「失以豪厘」,晉卿大夫之辱也。聰之誓兵,東兼齊地;曜之馳旆,西逾隴山,覆沒兩京,蒸徒百萬。天子陵江禦物,分據地險,回首中原,力不能救,劃長淮以北,大抵棄之。胡人利我艱虞,分鑣起亂;晉臣或阻兵遐遠,接武效尤。


(訳)

漢宣帝は当初、呼韓邪単于を納れ

亭鄣(辺境の砦?)に居らせて

偵察の任を委ね、

はじめは戎狄に寛大であった。


光武帝もまた南庭(南匈奴)の

数万人を西河に移し、

後に五原へと転居させ

(南匈奴の任地は)七郡に連なり延びた。


董卓の乱が起きると、

汾河の郊外は蕭然となった。


郭欽は武帝(司馬炎)に上奏し

江統は恵帝(司馬衷)に※策を献じ、

(※徙夷論。異民族を取り締まろうとした)

いずれも、魏が戎夷を都会や田舎へ

住まわせたことについてのもので、

(異民族を)砂漠の国境の塞へ移すよう請い

殷・周に服していた頃と

同一に定めようとした。


江統は則ち、諸部族が並び立つことを

郭欽は則ち、盟津に彼らが在ることを

憂慮していたのである。


(江統は)

進言をなおも自ら口伝したが

元海は既に(洛陽へ)至っており、


「豪厘(ごく僅かな機会)を失した」

という言葉があるが、

晋の公卿・大夫の恥辱である。


劉聡の整えた軍勢は東の斉の地を兼併し

劉曜の馳せた旗は西の隴山を越えて、

長安と洛陽、百万の大衆は覆没した。


天子(東晋の元帝)は

長江を越えて難を避け、険阻な地に割拠し、

中原を回首するも救うだけの力がなく、

長い間淮水の北と隔てられて、

大部分の者は晋を見捨てる事となった。


胡人の私利によって成された

艱虞(わざわいや心配事)は

道を分かちて乱を引き起こし、

晋の臣下には、遥か遠方からの兵を阻み、

悪事を模倣して簒奪を伺う者もいた。




(註釈)


前頁に輪をかけて訳に自信ない…………。

でもたぶん、おおよそは合ってるはずです。



晋の臣下には、異民族を危険視して

「あいつら辺境に移そうよ……」

と進言する者もいたのですが、

グズグズしているうちに

怪物・劉淵りゅうえん元海げんかい

台頭を許してしまいます。


劉淵は「漢」を建国し

内ゲバで乱れた晋はそこから

真っ逆さまに転落していき、

洛陽・長安の二大都市を落とされて

316年に滅亡してしまいます。


317年に、

傍系の皇族が長江の南へ逃れて

晋を再度建国するものの、

脆弱な政治基盤から、帝は常に

有力な臣下の権勢に怯え……

結局最後まで、中原へ

回帰することは叶いませんでした。


(それでも祖逖そてき桓温かんおんらはかなり善戦している)


劉淵が漢を建国した304年から

北魏が華北を統一する439年までを

五胡ごこ十六国じゅうろっこく時代」、

または「東晋とうしん十六国時代」といいます。



雨後の筍の如くに乱立した

「十六国」については、次の頁で

ざっと名前だけ触れてゆきます。

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