七十、狼顧の相
70.
帝內忌而外寬,猜忌多權變。魏武察帝有雄豪志,聞有狼顧相,欲驗之。乃召使前行,令反顧,面正向後而身不動。又嘗夢三馬同食一槽,甚惡焉。因謂太子丕曰:「司馬懿非人臣也,必預汝家事。」太子素與帝善,每相全佑,故免。帝於是勤於吏職,夜以忘寢,至於芻牧之間,悉皆臨履,由是魏武意遂安。及平公孫文懿,大行殺戮。誅曹爽之際,支黨皆夷及三族,男女無少長,姑姊妹女子之適人者皆殺之,既而竟遷魏鼎云。 明帝時,王導侍坐。帝問前世所以得天下,導乃陳帝創業之始,及文帝末高貴鄉公事。明帝以面覆牀曰:「若如公言,晉祚復安得長遠!」迹其猜忍,蓋有符於狼顧也。
(訳)
宣帝は、内心では
嫌忌している者にも
外面は寛大であり、
猜忌することは多くとも
臨機応変に対処した。
魏武(曹操)は宣帝が
雄志を抱いていることを察しており、
彼が狼顧の相(首が180度回る)
を有すると聞いて
実際に見てみようとした。
そこで、宣帝を召し寄せて前に進ませ、
反対側を振り返るように命じると、
面は正に後ろを向いているのに
身体は動いていなかった。
また、魏武はかつて
三頭の馬が同時にひとつの桶から
餌を食べている夢を見て
甚だこのことを嫌悪し、
そのことに因んで
太子の曹丕に言っていた。
「司馬懿は人臣に留まる男ではない。
必ずや汝の国家の事業に預かろう」
太子(曹丕)は
素より宣帝と親善であり
いつも何かあるたび、全面的に
助け合っていたため、免れた。
宣帝はこのことから
夜に眠るのも忘れるほど
職務に精勤して、
芻牧(牧畜)に至るまで
悉くすべてを慎重に履み行い、
それゆえに、魏武の気持ちも
ようやく解れたのであった。
公孫文懿(公孫淵)を平定するに及び
大いに殺戮を行った。
曹爽を誅殺した際は
その支党を全て、三族に至るまで
老若男女の区別なく皆殺しにし、
姑・姉妹の嫁ぎ先まで、全て殺した。
そうして竟には、魏の鼎は
(司馬氏に)遷っていったのだという。
明帝の時代、
(東晋の二代皇帝、司馬紹)
王導が侍坐(皇帝の傍に座って)していた。
明帝は、前世(西晋)が
どのように天下を得たのか
王導に問うた。
王導はそこで、
晋の宣帝の創業の始め、および
文帝(司馬昭)の末期に起こった
高貴鄉公の事件について述べた。
(司馬昭が皇帝曹髦を殺害した事件)
明帝は寝台に顔を伏せて、言った。
「もし公の言うとおりならば、
晋の国祚がどうして長続きしよう」
宣帝の猜疑心と残忍ぶりを辿ると
蓋し狼顧の相に符合したものであった。
(註釈)
首が180度回転する
「狼顧の相」を有する司馬懿。
真後ろを見られるくらい
視野が広い……
司馬懿の用心深さをあらわす
逸話だと言われております。
曹操も、
「ふん縛ってでも司馬懿を連れてこい」
「司馬懿はやっぱ危険だからぶっ殺す」
って、ちょっと身勝手すぎます。
じゃあ連れてくんなよって。
やっぱ仮病の司馬懿をむりやり
引っ張ってきたのが嘘なのでしょうね。
曹操が司馬懿警戒してるのって
劉備に似てるからだと思うんですよ。
表向きは寛大だけど、決して
腹の中を見せない男。
厚遇したら、物の見事に裏切った。
決して自分の下風に立たなかった。
自分より数段弱いはずの劉備を、
どうしても仕留めきれなかった。
二度は繰り返すまいと思って
曹丕に忠告しますが、
結局司馬懿を消すことはできず。
司馬懿は公孫淵に与する者や
曹爽の一派を皆殺しにし、
司馬昭と賈充は、あろうことか
皇帝殺しの大逆を犯し、
それを聞いた東晋の司馬紹は
先祖たちの悪逆ぶりに
「うちの国ダメじゃん、
長続きするわけねぇよ」と
苦言を呈したとされます。
これを言ってる本人の寿命が
長続きしないという皮肉な結果に。
(司馬紹、享年27)
晋の時代の史書だったら
こんな風に書けないやろなぁ。
実際に、三国志の著者の陳寿は
この、司馬昭が起こした
皇帝弑逆事件を、詳らかに
書くことができず……故に一部から
「曲筆、歴史家としてあるまじき行為だ」
などと、猛烈な批判を浴びたことは
前述の通りです。
司馬懿殺しすぎじゃない?と思いますが
まだこれは序の口に過ぎず、
この後に登場する石勒や冉閔などは
更にもっと酷いです。
この時代がいまいちマイナーな
理由でもあります。凄惨すぎるのです。




