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淡々晋書  作者: ンバ
第一、宣帝紀
64/313

六十五・六十六、魏末じじい対決

65.

三年春正月,王淩詐言吳人塞涂水,請發兵以討之。帝潛知其計,不聽。


(訳)

三年(251)春正月、

王淩は呉人が涂水じょすいに砦を

築いていると詐って言い、

兵を徴発して呉を

討伐することを要請した。


宣帝は密かにその計画を知り

聞き入れなかった。


(註釈)


司馬懿は当時73歳ですが

王淩も80歳の御高齢。

魏末おじいちゃんバトル、勃発。


董卓のことも生で見てるはずの彼には

司馬懿の姿はどう映っていた?


66.

夏四月,帝自帥中軍,汎舟沿流,九日而到甘城。淩計無所出,乃迎於武丘,面縛水次,曰:「淩若有罪,公當折簡召淩,何苦自來邪!」帝曰:「以君非折簡之客故耳。」即以淩歸于京師。道經賈逵廟,淩呼曰:「賈梁道!王淩是大魏之忠臣,惟爾有神知之。」至項,仰鴆而死。收其餘黨,皆夷三族,并殺彪。悉錄魏諸王公置于鄴,命有司監察,不得交關。


(訳)

夏四月、宣帝は自ら中軍を率いて

船を浮かべて流れに沿い

九日で甘城まで到った。


王淩は計を練ることなく、

そうして武丘に宣帝を出迎え

面縛してその宿営まで赴き

言った。


わたしにもし罪が有るならば、

公は折簡にて淩を召されればよかろう。

なぜわざわざ自らやって来たのだ!」


宣帝は言った。


「君は※折簡の客ではないからだ

(※手紙で呼び寄せるような身分)。」


即座に王淩を都へ送還した。


道すがら賈逵かきの廟を通りかかり

王淩は呼ばわって言った。


りょうどう(賈逵の字)よ〜!!

王淩こそは大魏の忠臣である、

ただ、なんじが神格を有すならば

このことをわかってくれい!!!!」


頂まで至ると、鴆毒ちんどくあおって死んだ。


その余党は捕えられ、

三族は皆殺しにされ

併せて曹彪そうひょうも殺された。


魏の諸王公は

悉く集められてぎょうに置かれ、

官吏に命じて監察させ

交関(互いに連絡)を禁じられた。




(註釈)


王淩彦雲、

結局ほとんど抵抗できずにチェックメイト。




賈逵かきはのち

司馬昭の側近となる

賈充かじゅうの父親です。


王淩とは互いに仲がよかったらしく、

その廟に向かって

王淩は慟哭しました。



説得はソフトに、

処分はハードに、というのが

司馬懿のスタイルであり、


司馬懿は曹爽一派に続いて

王淩の三族も皆殺しにし、

曹彪そうひょうまでも殺してしまいました。


魏の王公は

二度と謀反など画策できぬように

一箇所に集められて

囚人のように監視される事になります。


まだ建国から30年程度ですが

魏の命運はもはや潰えたに等しい。



賈逵はたしかに

魏の忠臣だったかもしれませんが


息子の賈充かじゅうはなんと、

魏の皇帝を殺害するという

超大逆をやってのけるし、

孫娘・賈南風かなんぷうは色ボケかつ

権力欲凄まじい毒婦です。



実質的に賈逵の家系が

魏と西晋にトドメ刺したようなもの。


どうしてこうなった……

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