六十、義士への寛容
60.
初,爽司馬魯芝、主簿楊綜斬關奔爽。及爽之將歸罪也,芝、綜泣諫曰:「公居伊周之任,挾天子,杖天威,孰敢不從?舍此而欲就東市,豈不痛哉!」有司奏收芝、綜科罪,帝赦之,曰:「以勸事君者。」
(訳)
当初、
曹爽の司馬の魯芝と主簿の楊綜は
関を斬って曹爽のもとへ奔った。
曹爽が罪に服そうとするに及び、
魯芝と楊綜は泣きながら諫めて
こう言った。
「公は伊尹・周公旦の任にあり、
天子を挟んでその威を振るえば
一体誰が従わぬ事がありましょうか?
それを捨てて東市に就かんと
(死罪を享受しようと?)
なさるとは、なんと
痛ましきことではありませんか!!」
官吏は魯芝と楊綜を捕え
その罪を料るよう上奏したが、
宣帝は二人を赦してやり、言った。
「主君に事える者は
彼らのようでなくては」
(註釈)
義士は赦す!
孫策みたいに復讐されなきゃいいけど
司馬懿には油断のゆの字もないからねぇ。
曹爽一派は粛清されましたが
縁戚の夏侯玄は
司馬懿から優遇されます。
司馬懿の死後、中書令の李豊が
夏侯玄と天子を担いで、司馬師を
打倒しようと企てますが、
事前に計画が露見してしまい
夏侯玄・李豊ともに
腰斬の刑に処されてしまいました。
かくて、曹芳も廃位されます。
254年当時、23歳でした。
曹爽や夏侯玄が消された事により
我が身を危ぶんだ
夏侯淵の次男・夏侯覇は
蜀へと亡命してしまいます。
のちに名将として名を馳せる羊祜は
亡命者の夏侯覇の娘を妻帯していたため
立場が悪くなりますが、
むしろ、夏侯氏の縁故の者を
より一層気遣うようになったといいます。




