五、樊城の危機
219年。
蜀の武将・関羽が
魏呉連合軍に敗れた
樊城の戦いです。
関羽は晋書にも出てくるあたり
やっぱ影響力強いですね。
5.
遷為軍司馬,言於魏武曰:「昔箕子陳謀,以食為首。今天下不耕者蓋二十餘萬,非經國遠籌也。雖戎甲未卷,自宜且耕且守。」魏武納之,於是務農積穀,國用豐贍。帝又言荊州刺史胡脩粗暴,南鄉太守傅方驕奢,並不可居邊。魏武不之察。及蜀將關羽圍曹仁於樊,于禁等七軍皆沒,脩、方果降羽,而仁圍甚急焉。
(訳)
転属して軍の司馬となり、
宣帝は魏武(曹操)に述べた。
「かつて箕子が謀を陳べた際
食糧の問題を第一としました。
今天下には農耕に従事しておらぬ者が
およそ二十万余りで、国家を経営する上で
遠望しておくことはできませぬ。
武装はいまだに解除できぬと雖も
自ら耕作し、守衛すべきでしょう」
魏武はこの意見を納れて
農業に務めて穀物を積み上げ
国は富み、豊かになった。
宣帝はまた、荊州刺史の胡修は粗暴、
南郷太守の傅方は驕奢であり
揃って辺境に居らせるべきでないと述べたが
魏武は察することが出来なかった。
蜀の将関羽が曹仁を樊城に囲み、
于禁らの七軍がみな(水)没すると
胡修と傅方は果たして関羽に降伏し、
曹仁への包囲は甚だ急となった。
(註釈)
219年、
曹操が漢中の守備を任せた
夏侯淵・張郃が劉備に敗北。
重鎮夏侯淵はなんと、
劉備軍の黄忠に討ち取られてしまいます。
この事態に曹操が親征するも、
遂に劉備を降す事はできずに
撤退を選びます。
勢いに乗る劉備は、曹操に対抗して
「漢中王」に即位。
それに呼応して、荊州の関羽が
中原へと攻め上ってきます。
曹操は宿将の于禁と
漢中で得た龐徳を援軍に出しますが、
折しも長雨が降り、その七軍は水没。
ちゃっかり船を用意していた関羽は
龐徳を斬り、進退窮まった于禁は
関羽に投降してしまいました。
劉備・関羽の凄まじい勢いに
さすがの曹操も顔面蒼白となり、
一時は遷都を考えるほどでした。
晋書のなかでは、
曹操がピンチに陥るのは大体
司馬懿の言う事無視したからっていう風に
纏められてるんですね。
赤壁までは荀彧、
漢中までは賈詡、
それ以降は司馬懿が総合アドバイザー
みたいな感じに書かれてます。