五十四、呉軍侵攻
246年、再び呉軍が攻めてきます。
指揮官誰? 諸葛恪? 丁奉?
54.
七年春正月,吳寇柤中,夷夏萬餘家避寇北渡沔。帝以沔南近賊,若百姓奔還,必復致寇,宜權留之。曹爽曰:「今不能修守沔南而留百姓,非長策也。」帝曰:「不然。凡物致之安地則安,危地則危。故兵書曰『成敗,形也;安危,勢也』。形勢,御眾之要,不可以不審。設令賊以二萬人斷沔水,三萬人與沔南諸軍相持,萬人陸梁柤中,將何以救之?」爽不從,卒令還南。賊果襲破柤中,所失萬計。
(訳)
七年(246)春正月、
呉が柤中へと侵攻し、
夷狄(異民族)も華夏(中華民族)も
一万余りの家が呉の侵略を避けて
沔水の北へ渡った。
宣帝は、沔水の南は賊に近く
もし百姓が戻って来れば、
賊は必ずまた侵攻してくるだろうから
民を沔水の北に留めるべきだと考えた。
曹爽は言った。
「今、沔水の南を守りきれずに
百姓を留めておくのは、得策でない」
宣帝は言った。
「そうではない。
凡そ物事を致すときには
安全な地に則れば安全で
危険な地に則れば危険なのだ。
故に、兵法書では言っているだろう。
『成功と失敗は、形である。
安全と危険は、勢である』と。
形勢とは、衆を御する要諦であり
審議せずにおれようか。
もし賊が二万人を以って沔水を断たせ
三万人を寄越して沔南の諸軍と対峙させ
一万人に柤中を跳梁させたならば
どうやって救おうというのだ?」
曹爽は従わず、
結局民衆を南へ帰らせてしまった。
賊は果たして襲撃してきて柤中を破り
失った戸数(?)は万を数えた。
(註釈)
司馬懿の言うことは全部当たって
曹爽の言うことは全部ハズレ。
完全に当て馬にされてますね。
呉では孫権の後継争いの真っ最中。
三男の孫和VS四男の孫覇の
仁義なき闘い、「二宮の変」です。
孫権の娘、孫魯班の僻みに始まり
臣下たちを巻き込んで発展していった
このグダグダの権力闘争は
245年に
三男派の筆頭である陸遜が横死、
246年に
四男派の筆頭である歩隲が死亡して
徐々に沈静化されていきます。
諸葛恪だけはこの件に
あまり介入していなかったようで、
元気に魏を攻めてきました。
孫権は特に何もせずに
事態を傍観しており、
最終的に四男に死を賜り
三男を皇太子から降ろして、
七男の孫亮を後継者に擁立します。
孫権は相続の問題に対する意識が
低すぎると言わざるを得ません。
皇太子の母親が皇后でないのとか
普通ありえない、呉だけですよ。
司馬懿(179〜251)と
孫権(182〜252)は
おおよそ同年代です。
司馬懿のすごいところは
晩年になってもその智略には
いささかの陰りも見えない点です。
ふつう、孫権みたいに
衰えるものなんですが……。
三国志演義では、
孫権の晩年の内訌には触れておらず、
後半ほとんど出番ありません。
たぶん、魏延と楊儀に
「蜀も大変だよね。人材難だから
あんな小物を使わなきゃいけないもん」
と、毒づく場面が
孫権の最後の出番だと思います。
孫権は悪いところも
山のようにあるのが最高なの♪
(いらねぇよこんな屈折したファン




