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淡々晋書  作者: ンバ
第一、宣帝紀
51/313

五十・五十一、興勢山の戦い

50.

五年春正月,帝至自淮南,天子使持節勞軍。


(訳)

五年(244)春正月、

宣帝は淮南より至り、

天子は持節を遣わして軍を労った。


(註釈)

司馬懿も66歳になりました。

曹操は66歳で没しましたが、

司馬懿はもう少し生きます。


天子の曹芳はまだ小学校高学年くらいかな。


244年は

久方ぶりに、魏と蜀の間で戦争が。


ただし司馬懿は絡んでいないので

一行で終了です。


51.

尚書鄧颺、李勝等欲令曹爽建立功名,勸使伐蜀。帝止之,不可,爽果無功而還。


(訳)

尚書の鄧颺とうよう李勝りしょう

曹爽に功名を立てさせようと考え

蜀討伐の軍を遣わす事を勧めた。


宣帝はこれを諫めたが

止めることはできず、

曹爽は果たして

何の功績も無く引き返してきた。



(註釈)

蜀攻めました、負けました。


って、短っ!?



244年、興勢山こうせいざんの戦いです。



243年10月、諸葛亮亡き後

蜀を纏めていた蒋琬しょうえんは病気がちで

兼ねてから計画していた北伐の

実行は難しいと判断したのか、

漢中に駐屯させていた主力部隊を

まで引っ込めてしまいます。


司馬懿にばかり

いい格好をさせてたまるか!と

気に逸った曹爽は、これを

蜀を潰す絶好の機会と見て

244年3月に、10万の兵を率いて

漢中へと侵攻します。

(司馬懿の次男・司馬昭が従軍)


この時漢中には3万程の守備兵があるのみで

諸葛亮が亡くなってからというもの

戦らしい戦をしてこなかった蜀軍は

大いに慌ててしまいます。



蜀の諸将は、いったん漢中を

放棄しようかと議しましたが、

王平おうへいは断固として反対し

逆に前進して陣営を堅く守り、

涪からの援軍を待つ作戦に出ます。


魏軍は狭くて険しい蜀の地勢にあって

補給が滞ってしまい、

そうこうしているうちに、

涪と成都せいとからの援軍が

到着してしまったために

曹爽はこれ以上の滞陣は無益と判断して

そのまま撤退していきました。


蜀の大将軍・費禕ひい

すかさず追撃に出ましたが

魏の涼州刺史・郭淮かくわいが奮戦したため

大勝するまでには至らず、

かくて曹爽は何の成果も得られずに

引き返していったのでした。


来敏らいびん費禕ひいと囲碁打って

肝の座りっぷりを量る場面もここ)



この時の敗戦が

曹爽の名望を大きく失墜させ

司馬懿との権力闘争において

多大な悪影響を及ぼします。



鄧颺とうようはちなみに、光武帝の功臣の

鄧禹とううの子孫なんですが

先祖の顔に泥を塗るような無能ぶりです。


蜀の鄧芝とうしも鄧禹の子孫ですが

こちらはとても優秀です。


鄧颺とうよう鄧芝とうし、何故差がついたのか

慢心、環境の違い(zakzak


また、のちのち出てくる

苻堅ふけん配下の猛将・鄧羌とうきょう

鄧禹の子孫だそうです。


対する蜀は、246年に

中心選手の蒋琬と董允とういんが亡くなり

皇帝・劉禅はおべっか使いの

陳祗ちんし黄皓こうこうを重用するように。

せっかくいい感じだったのにっ……!


一方呉では、内ゲバに巻き込まれて

劉備を破った英雄陸遜(りくそん)がストレス死。


三国いずれにも暗雲が……

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