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淡々晋書  作者: ンバ
第一、宣帝紀
44/313

四十三、司馬懿VS朱然

43.

六月,乃督諸軍南征,車駕送出津陽門。帝以南方暑溼,不宜持久,使輕騎挑之,然不敢動。於是休戰士,簡精銳,募先登,申號令,示必攻之勢。吳軍夜遁走,追至三州口,斬獲萬餘人,收其舟船軍資而還。天子遣侍中常侍勞軍于宛。


(訳)

六月、そうして宣帝は

諸軍を統率して南征し

車駕は津陽門しんようもんから送り出した。


宣帝は南方が高温多湿である事から

持久策を執るべきではないと考え

軽騎を挑ませたが、

朱然しゅぜんは敢えて動こうとしなかった。


そこで、兵士に休息を取らせて

精鋭を選り抜き、先駆けを募って

号令をかけて、さも

攻撃するかのような姿勢を示した。


呉軍が夜中に遁走すると、

宣帝は追撃して三州口に至り

一万余りを斬ったり捕えたりして

その舟や軍資を回収して帰還した。


天子は侍中常侍を遣わして

宛において軍を労った。


(註釈)

樊城はコロナウイルスがやってきた

武漢に割と近い場所にあります。


高温多湿で、兵が疫病になるとか

既に当時から記録が残っており……


「然」って「しかし」じゃなくて

朱然の「然」なのに気付かず

うっかりマヌケな誤訳を

しそうになりました。


やっぱ司馬懿は強ぇえ。


江陵で勇名を馳せた筈の朱然が

まるで赤ん坊扱い……と思わせますが

三国志では、司馬懿が到着する前に

朱然は既に撤退した後だった、とあります。


これは晋書のデタラメかな?


241年5月

呉では皇太子孫登(そんとう)

33歳の若さで病死するという

大事件が起きており、

呉軍は6月に撤退します。


撤退した直後に

孔明の兄で、重臣の諸葛瑾しょかつきん

68歳で亡くなってしまいます。



236年にはブレーキ役の張昭ちょうしょう

238年には最愛の歩夫人、

241年には大の仲良しの諸葛瑾と

期待をかけていた皇太子が

相次いで亡くなってしまい、

老境にも差し掛かってきた孫権は

徐々に持ち前のバランス感覚を

喪失していくのでした。


皇帝になった孫権は

対馬半島に送った使節団が壊滅したり

遼東と同盟を結んで裏切られたり

佞臣に権限与えて不正を横行させたり

二人の皇子に無駄な家督争いさせたり

透明人間に祈祷させたり


赤壁と夷陵のキレキレっぷりは

どこへ行ったの??

と思えるくらいの迷采配を連発します。

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