四十、国交復活
40.
正始元年春正月,東倭重譯納貢,焉耆、危須諸國,弱水以南,鮮卑名王,皆遣使來獻。天子歸美宰輔,又增帝封邑。
(訳)
正始元年(240)春正月、
東倭(当時の日本)が
通訳を重ねて朝貢してきた。
焉耆、危須らの諸国、
弱水以南、鮮卑の名王がみな
使者を遣わして来朝し
貢物を献上してきた。
天子はこの美事を
宰相(司馬懿)の輔けに
帰するものだとして
また宣帝の封邑を加増した。
(註釈)
諸国からの朝見がこんなに!
皇帝曹芳、この時9歳。
使者の方々は、年少の皇帝を見て
どんな風に思ったんでしょうか。
そもそも陛下に謁見する事自体、
叶わないものなのかな?
焉耆はウイグル自治区のあたりの
オアシス国家だそうです。
後漢書の班超伝とかで
見たような見ないような。
「後漢書東夷伝」
「魏志倭人伝」などによれば
当時の日本人はお化粧をしていたとか、
ワンピースを着ていたとか、
一夫多妻制があったとか、
(誤訳の可能性大いにあり)
様々な記述があります。
代々男の王が治めていたらしいのですが
西暦150年ごろに乱が起きて、
それからは女性の王が
立つようになったとか。
そうした経緯から
卑弥呼や壱与(臺與)が出てきます。
その後、五胡十六国時代に入って
中原は荒れ果ててしまったため(?)
倭国からの使者は途絶えました。
「宋書」によると
南宋高祖の永初2年(421)に
倭讚が貢物を献上していた事から
爵位を賜ろう……的な詔勅の記録があります。
太祖の元嘉2年(425)にも記録が。
この「倭讚」って……当時の天皇陛下??
「晋書」の東倭の記述は
ほとんど「魏志倭人伝」の焼き直しでしたが
安帝紀、413年に倭国からの
朝貢の記録が残っていました。
壱与が中原に使者を遣わした
最後の記録が266年、
266〜413年の
倭国の記録がないのです。
そこんとこ教えてちょーよ!!
石勒が編纂させていたという
「趙書」が散逸していなければ、
4世紀の情報を得られたかもしれないのに。
誰だよ駄目にしちゃった奴。冉閔か。
日本のことを「倭」と呼ぶのは
自己紹介で「我」「我は……」
って言ってたからだとかって
何かで読んだ記憶があります。
「卑弥呼」も考えてみれば
めっちゃディスられた漢字あてられてます。
当時の為政者は巫術とかできて
シャーマン的な側面を持ってたらしいので
本来「日巫女」とか
「陽神子」だったんじゃないのかな。
FCのゲーム「天地を喰らう2」では
なんと、赤壁の戦いの時に
邪馬台国まで行って大蛇を倒すという
めちゃくちゃなエピソードがあります。
恐らくドラクエ3の影響でしょう。
このゲームのラスボス(司馬懿戦)の
BGM、超かっこいいのよね




