三十四、立体思考
公孫淵戦、その三。
司馬懿の状況判断能力はほんとに凄い。
34.
會霖潦,大水平地數尺,三軍恐,欲移營。帝令軍中敢有言徙者斬。都督令史張靜犯令,斬之,軍中乃定。賊恃水,樵牧自若。諸將欲取之,皆不聽。司馬陳珪曰:「昔攻上庸,八部並進,晝夜不息,故能一旬之半,拔堅城,斬孟達。今者遠來而更安緩,愚竊惑焉。」帝曰:「孟達眾少而食支一年,吾將士四倍于達而糧不淹月,以一月圖一年,安可不速?以四擊一,正令半解,猶當為之。是以不計死傷,與糧競也。今賊眾我寡,賊飢我飽,水雨乃爾,功力不設,雖當促之,亦何所為。自發京師,不憂賊攻,但恐賊走。今賊糧垂盡,而圍落未合,掠其牛馬,抄其樵采,此故驅之走也。夫兵者詭道,善因事變。賊憑眾恃雨,故雖飢困,未肯束手,當示無能以安之。取小利以驚之。非計也。」朝廷聞師遇雨,咸請召還。天子曰:「司馬公臨危制變,計日擒之矣。」既而雨止,遂合圍。起土山地道,楯櫓鉤橦,發矢石雨下,晝夜攻之。
(訳)
ちょうど霖潦(長雨で濁流に塗れる)となり
平地に数尺の大水が溢れて
三軍は恐れ、陣営を移そうとした。
宣帝は軍中に、
敢えて陣営を移そうという事を
言う者が有れば、斬ることを命じた。
都督令史の張静が
命令に違犯して斬られ、
軍中はかくて安定した。
賊は水(長雨)を恃んで
樵牧(木こりと牧畜)し、
自若としていた。
諸将はこれを攻め取らんとしたが
宣帝は全く聞き入れなかった。
司馬の陳珪が言った。
「かつて上庸を攻めた時は
八つの部隊が並進し
昼夜において休息しなかかったため
一旬の半(5日)で堅城を抜き、
孟達を斬ることが出来ました。
(それと比較して)今はといえば、
遠方より来攻しておりますのに
安穏と緩やかに構え、
愚輩は密かに戸惑っております」
宣帝は言った。
「孟達の手勢は少なかったが
食糧支援は一年分あり、
我が将士は孟達の四倍なれど
食糧は一月分に満たなかった。
一月分の食糧で、
一年分の蓄えのある者を図るに
どうして速戦以外の方法があろうか?
『四』の兵力を以って
『一』の兵力を撃つならば、
正にその半数が蹴ちらされても
なお攻撃すべきであろう。
この時は、死傷者を計らずに
糧秣を競ったものである。
今、賊は多勢で我々は寡勢だが
賊は飢えており、我々は飽満だ。
大雨が降ったこともしかり。
成果のあがらぬ事を
促進しようとしたところで
また何の甲斐があろうか。
私は都を出発した時より
賊が攻めてくる事は憂慮せず
ただ、賊が逃げてしまう事を恐れていた。
今、賊の兵糧は殆ど尽きており
我々を囲むにも手落ちがあって
協力できていない。
奴らの牛馬や采樵(柴や薪)を
掠め取ってしまえば、これが
敗走へと駆り立てる所以となる筈だ。
そもそも、兵(戦)とは詭道であり
善く事態に因りて変化するものだ。
賊は多勢と雨を恃みにしているため
飢えに困窮しており、
いまだ束手(無抵抗での降伏)を
肯んじておらぬ。
こちらが無能であるように見せかけて
奴らを安心させてやろうぞ。
小利を取ろうとして奴らを驚かすことは、
得策ではないのだ」
朝廷は、師団が雨に遇ったと聞いて
みな、軍の召還を要請した。
天子は言った。
「司馬公は危機に臨みて変化を制する。
公孫淵を捕えるのも時間の問題であろう」
雨が止んだのち、
かくて囲みが出来あがった。
盛り土をして坑道を掘り
楯櫓(大盾)、雲梯(はしご車)、
撞車(城壁を破壊する兵器)を繰り出し
矢石を雨のごとくに降り注がせ
昼夜に渡ってこれを攻め抜いた。
(註釈)
「楯櫓鉤橦」
↑
ここの訳自信なし。
鉤と橦って攻城兵器のことだと
解釈したんですが、
間違ってたらすみません。
しかし
司馬懿の状況判断能力は
本当にすごい!!
彼我の兵数や糧秣の多寡を
ちゃんと立体的に判断しながら
軍を動かしてますよね。
敵を知り、己を知らば
百戦危うからず……とは
こういう指揮官の事を言うのかも。
諸葛亮との勝負には敗れましたが
戦績の上では生涯無敗のままです。
司馬懿の司馬の陳珪は
陳登の親父さんと同名の別人です。




