一・二、はしゃぐ曹丕に迷う辛敞
1.
羊耽妻辛氏,字憲英,隴西人,魏侍中毗之女也。聰朗有才鑒。初,魏文帝得立為太子,抱毗項謂之曰:「辛君知我喜不?」毗以告憲英,憲英歎曰:「太子,代君主宗廟社稷者也。代君不可以不戚,主國不可以不懼,宜戚而喜,何以能久!魏其不昌乎?」
(訳)
羊耽の妻辛氏、字を憲英は、
隴西の人。魏の侍中辛毗の娘である。
聡明かつ朗悟で、才覚と見識を有していた。
当初、魏の文帝(曹丕)は
太子として立つ事がかなうと、
辛毗の項(首筋)を抱えて彼にこう言った。
「辛君には我が喜びがわからないのかね?」
辛毗がこの事を辛憲英に告げると、
辛憲英は歎息して言った。
「太子とは、君に代わって
宗廟、社稷を主宰する者です。
君に代わるに悲しむ事もできず
国を主管するに懼れる事もできません。
悲しむべきなのに喜んでいますが
どうして(喜びが)長続きしましょう、
魏はこんな事で昌えるのでしょうか?」
2.
弟敞為大將軍曹爽參軍,宣帝將誅爽,因其從魏帝出而閉城門,爽司馬魯芝率府兵斬關赴爽,呼敞同去。敞懼,問憲英曰:「天子在外,太傅閉城門,人云將不利國家,於事可得爾乎?」憲英曰:「事有不可知,然以吾度之,太傅殆不得不爾。明皇帝臨崩,把太傅臂,屬以後事,此言猶在朝士之耳。且曹爽與太傅俱受寄託之任,而獨專權勢,於王室不忠,於人道不直,此舉不過以誅爽耳。」敞曰:「然則敞無出乎?」憲英曰:「安可以不出!職守,人之大義也。凡人在難,猶或恤之;為人執鞭而棄其事,不祥也。且為人任,為人死,親昵之職也,汝從眾而已。」敞遂出。宣帝果誅爽。事定後,敞歎曰:「吾不謀于姊,幾不獲於義!」
(訳)
弟の辛敞は大将軍曹爽の参軍となった。
宣帝(司馬懿)は曹爽を誅殺せんとしており、
彼が魏帝(曹芳)に従って
外出した事に因り、城門を閉じた。
曹爽の司馬の魯芝は府の兵を率い、
関を斬って(城門を突破して)
曹爽のもとへ赴こうとしており、
辛敞に「共に立ち去ろう」と呼びかけた。
辛敞は懼れ、辛憲英に問うた。
「天子は外部におわし、
太傅(司馬懿)は城門を閉ざして、
人は国家の利にならない
だろうと言っています。
そんな事ができるのでしょうか」
辛憲英は言った。
「事態がどうなるかわかりませんが
吾がこの事を度るに、
太傅は殆どそうせざるを
得ないのでしょう。
明皇帝(曹叡)は崩御に臨まれた際
太傅の臂を手に取られ
後事を委嘱なさいましたが
この言葉はなおも
朝廷の士の耳に残っています。
かつ、曹爽は太傅と倶に
委託の任を受けておきながら
権勢を独占しています。
王室に於いては不忠、
人道に於いては不直であり、
この挙動は曹爽を
誅殺するためのものわに過ぎないでしょう」
辛敞は言った。
「しからばすなわち、敞は
(城を)出てはならないということですか?」
辛憲英は言った。
「どうして出なくて
よいということがありますか!
(出なさいな!)
職分を守ることは人の大義です。
凡そ人というものは
艱難に在ってもなお
これを恤むことがあるのですよ。
人が鞭を振るう立場になりながら
その事を放棄してしまうのは
不祥というものです。
それに、人の為に任じられ
人の為に死ぬのが
親昵の職というものです。
汝は、衆に従うのみです」
辛敞はとうとう出た。
宣帝は果たして曹爽を誅殺した
(が、辛敞の事は殺さなかった)。
事態が収束した後
辛敞は歎息して言った。
「吾は姉上に謀らねば
まず大義を得られなかったろう」
(註釈)
烈女伝のトップバッターは
辛毗の娘の辛憲英。
辛毗は五丈原の戦いで節持ってた人。
太子に立てられてはしゃいでる曹丕に対し
「あの人が君主で大丈夫なんですか?」
的なコメント。
性格はちょっとあれだけど
統治者としては優秀なんやぞ。
皇帝になった後の曹丕は司馬懿に
「全く心が休まらねぇ」って言ってたり
呉質には
「俺は白髪じゃないだけの老人」
とか手紙で言ってたり
気苦労が多すぎて
即位からたった6年、
40歳で死んじゃった。
三十余年後、
司馬懿がクーデターを起こした時も
辛憲英は先を見通す明識で弟を助けた。




