二十二・二十三、義人衛璪・玉人衛玠
22.
璪字仲寶,襲瓘爵。後東海王越以蘭陵益其國,改封江夏郡公,邑八千五百戶。懷帝即位,為散騎侍郎。永嘉五年,沒于劉聰。元帝以瓘玄孫崇嗣。
(訳)
衛璪は字を仲宝、衛瓘の爵位をついだ。
その後、東海王の司馬越が
蘭陵をその食邑に追加し
江夏郡公に改封された。
食邑は八千五百戸であった。
懐帝が即位すると散騎侍郎となった。
永嘉五年、劉聡のために没した。
元帝(もと瑯琊王の司馬睿)は
衛瓘の玄孫の衛崇を後嗣とした。
23.
玠字叔寶,年五歲,風神秀異。祖父瓘曰:「此兒有異于眾,顧吾年老,不見其成長耳!」總角乘羊車入市,見者皆以為玉人,觀之者傾都。驃騎將軍王濟,玠之舅也,俊爽有風姿,每見玠,輒歎曰:「珠玉在側,覺我形穢。」又嘗語人曰:「與玠同遊,冏若明珠之在側,朗然照人。」及長,好言玄理。其後多病體羸,母恆禁其語。遇有勝日,親友時請一言,無不咨嗟,以為入微。琅邪王澄有高名,少所推服,每聞玠言,輒歎息絕倒。故時人為之語曰:「衛玠談道,平子絕倒。」澄及王玄、王濟並有盛名,皆出玠下,世云「王家三子,不如衛家一兒。」玠妻父樂廣,有海內重名,議者以為「婦公冰清,女婿玉潤。」
(訳)
衛玠は字を叔宝、五歳にして
風格や精神は際立って秀でていた。
祖父の衛瓘はこう言っていた。
「この児は衆人と異っているが
顧慮するに吾は年老いてしまい
その成長を見ることはできまい」
総角(子供の頃)に
羊車に乗って市へ入った際、
見かけた者はみな
彼を玉人であるといい、
これを観ようとする者が
都を傾ける程であった。
驃騎将軍の王済は衛玠の舅であり
俊爽で風采を有していたが、
衛玠と見えるたびに歎息して、
「珠玉(衛玠)が側に在ると、
我は姿形の穢れに気付かされる」
と言っていた。
また、嘗て人に語るには、
「衛玠とともに遊んでいると
あかるさはまるで
明珠の側に在るようで、
朗然と人を照らす」
成長するに及んで
玄妙な理について
述べることを好んだ。
その後、多くの病で体が羸弱し、
母はつねに彼の言論を禁じていた。
偶然にも健勝である日に
親友が時に一言を請えば、
咨嗟(ため息)せぬ事はなく、
以って微妙(いい意味)なものとなった。
瑯琊の王澄には高い名声があって
少くして推服される所となり、
衛玠の言葉を聞くたびに
歎息、絶倒していた。
故に当時の人は、
「衛玠が道を論ずると平子が絶倒する」
と言っていた。
王澄及び王玄、王済は
そろって盛んな名声があったが
みな衛玠の下風に立っていたので、
世の人々は、
「王家の三子は衛家の一児に如かず」
と云っていた。
衛玠の妻の父である楽広は
海内に重い名声があり、論者は、
「婦公は冰であり清らか、
女婿は玉であり潤っている」
とした。
(註釈)
王偏の名前ってどうも
エリートのイメージがあるのよね。
司馬亮が変な論功行賞したせいで
8500戸がすごいと思えなくなってしまった。
弟をはじめとする家族が南へ避難するなか
衛璪は懐帝に付き従い、
匈奴漢に殺されたようだ。
衛玠はえげつないほどのイケメンで
行列ができるレベル。




