十八・十九、書史後
18.
魏初有鍾胡二家為行書法,俱學之于劉德升,而鍾氏小異,然亦各有巧,今大行於世云。作《隸勢》曰:「鳥跡之變,乃惟佐隸。蠲彼繁文,崇此簡易。厥用既弘,體象有度。煥若星陳,鬱若雲布。其大徑尋,細不容發。隨事從宜,靡有常制。或穹隆恢廓,或櫛比針列,或砥平繩直,或蜿蜒膠戾,或長邪角趣,或規旋矩折。修短相副,異體同勢。奮筆輕舉,離而不絕。纖波濃點,錯落其間,若鍾虡設張,庭燎盡煙,嶄巖?嵯,高下屬連。似崇臺重宇,增雲冠山。遠而望之,若飛龍在天;近而察之,心亂目眩。奇姿譎詭,不可勝原。研桑所不能計,宰賜所不能言。何草篆之足算,而斯文之未宣。豈體大之難睹,將秘奧之不傳?聊俯仰而詳觀,舉大較而論旃。」
(訳)
魏の初期には鍾・胡の二家があり
行書の技法を為した。
倶に劉徳升に学び、
鍾氏はわずかに異なってはいたが
やはりそれぞれ巧みであり
現在は大いに世論に行き渡っている。
(鍾繇は?)隸勢を作って言った。
「鳥跡の変化が左隷である。
彼の繁文を除き
こうした簡易ぶりを事をとうとんだ。
その用いること既にひろまり
体象には度がある。
煥然たることは星のならぶ若く
鬱勃たることは雲を布く若くである。
その大きなものは直径が尋で
細かきものは髪を容れられぬほどだ。
事に随いて適宜に従い
常なる制度はない。
或いは弓形に恢廓であったり、
或いは櫛のようにならんで
針を列べたようであったり、
或いは砥石のように平らで
縄のように真っ直ぐであったり、
或いは蜿蜒と回転し、曲がりくねったり、
或いは長くてななめで
角逐してはしったり、
或いは規矩(定規やコンパス)を
折り、回旋させたりする。
長短寄り添いあって
異なる体も勢を同じくする。
筆を奮わせ軽やかに挙げれば
離れ絶えることはない。
微かな波、濃い点がその間に錯落し
鍾虡が設けて張るかの若くで
燎が煙を尽くすかのごとく、
切り立った厳は嵯峨として
高低が屢々連なる。
たかき台にやねが重なり
集まった雲が山に冠るのに似ている。
遠くからこれを望めば
龍が飛び、天に在るかの若くで
近くからこれを察すれば
心が乱れて目が眩んでしまう。
奇妙な姿が譎詭する事を
たずねることはできない。
研桑の計れぬ所であり
宰賜の言いあらわせぬ所である
どうして草書や篆書は算えるに十分であるのに
かの文は宣布されておらぬのか。
聊か俯仰して詳らかに観察し
大体の比較点をあげて旃を論じた」
19.
漢興而有草書,不知作者姓名。至章帝時,齊相杜度號善作篇。後有崔瑗、崔寔,亦皆稱工,杜氏殺字甚安,而書體微瘦。崔氏甚得筆勢,而結字小疏。弘農張伯英者,因而轉精甚巧。凡家之衣帛,必書而後練之。臨池學書,池水盡黑。下筆必為楷則,號匆匆不暇草書,寸紙不見遺,至今世尤寶其書,韋仲將謂之草聖。伯英弟文舒者,次伯英。又有姜孟穎、梁孔達,田彥和及韋仲將之徒,皆伯英弟子,有名于世,然殊不及文舒也。羅叔景、趙元嗣者,與伯英並時,見稱於西州,而矜巧自與,眾頗惑之。故英自稱「上比崔杜不足,下方羅趙有餘。」河間張超亦有名,然雖與崔氏同州,不如伯英之得其法也。
(訳)
漢が興った際には草書があったが
作者の姓名は知られていない。
章帝の時代に至ると
斉の相の杜度が善く篇を作すと号した。
その後、崔瑗、崔寔がおり
やはりみな工みさを称えられた。
杜氏は字を殺ぐことが甚だ安定しており
書体は微かに痩せていた。
崔氏は甚だ筆勢を得たが
字を結ぶ事はわずかに疎かであった。
弘農の張伯英はこれに因り
精妙で甚だ巧みであった。
凡そ家の衣や帛は
必ず書いて後にこれを練った。
池に臨んで書を学び、
池の水は悉く黒くなってしまった。
筆を下せば必ず楷則となり
匆匆として草書の暇がないと号した。
一寸の紙すら遺しておらず
現代ではその書は至宝である。
韋仲将(韋誕)は彼を草聖と謂った。
伯英の弟の文舒は、伯英に次いだ。
また、姜孟穎、梁孔達,田彦和及び
韋仲将といった輩は
みな、伯英の弟子であり
当代で名声があったが、
それでも文舒にはまるで及ばなかったのである。
羅叔景、趙元嗣は伯英と同時期に
西州で称えられており、
技巧をほこって自ら与し
衆人を頗る惑わせた。
そのため、伯英は自称して言った。
「上は崔・杜と比べるに足らず
下は羅・趙とならべるに余りある」
河間の張超もまた有名で
崔氏と同州ではあったが
その技法を得ている事に関しては
伯英に及ばなかった。
(註釈)
魏書の11巻でちらっと
書家としての韋誕に触れてた。
張超はたぶん張邈の弟じゃなくて
呉書18に出てきた書家の方の張超。




