五・六、劉聡憤死
5.
先是,郭默聞矩被攻,遣弟芝率眾援之。既而聞破暢,芝復馳來赴矩。矩乃與芝馬五百匹,分軍為三道,夜追賊,復大獲而旋。
(訳)
これより以前、郭黙は
李矩が攻められていると聞いて
弟の郭芝に部衆を率いさせ
これを救援させていた。
既に劉暢が破られたと聞くと
郭芝は再度駆け来たり
李矩のもとへ赴いた。
李矩はそこで郭芝に馬五百匹を与え、
軍勢を分けて三つの進路を為すと、
夜に賊を追撃し、またも
大いに敵勢を捕獲してから旋転した。
6.
先是,聰使其將趙固鎮洛陽,長史周振與固不協,密陳固罪。矩之破暢也,帳中得聰書,敕暢平矩訖,過洛陽,收固斬之,便以振代固。矩送以示固,固即斬振父子,遂率騎一千來降,矩還令守洛。後數月,聰遣其太子粲率劉雅生等步騎十萬屯孟津北岸,分遣雅生攻趙固於洛。固奔陽城山,遣弟告急,矩遣郭誦屯洛口以救之。誦使將張皮簡精卒千人夜渡河。粲候者告有兵至,粲恃其眾,不以為虞。既而誦等奄至,十道俱攻,粲眾驚擾,一時奔潰,殺傷太半,因據其營,獲其器械軍資不可勝數。及旦,粲見皮等人少,更與雅生悉餘眾攻之,苦戰二十餘日不能下。矩進救之,使壯士三千泛舟迎皮。賊臨河列陣,作長鉤以鉤船,連戰數日不得渡。矩夜遣部將格增潛濟入皮壘,與皮選精騎千餘,而殺所獲牛馬,焚燒器械,夜穴圍而出,奔武牢。聰追之,不及而退。聰因憤恚,發病而死。帝嘉其功,除矩都督河南三郡軍事、安西將軍、滎陽太守,封修武縣侯。
(訳)
これより以前、劉聡は
その部将の趙固に
洛陽を鎮撫させていたのであるが、
長史の周振は趙固と仲が悪く、
趙固の罪を密告していた。
李矩は劉暢を破って
帳の中から劉聡の書簡を得ており、
劉暢に、〝李矩を平定した後は
雒陽を通過し、趙固を捕えてこれを斬り、
周振を趙固に代わらせよ〟
と勅語したものであった。
李矩がこれを送って趙固に示すと
趙固は即座に周振父子を斬り、
遂には騎馬一千を率いて来降してきた。
李矩は引き返して
洛陽の守備を命じた。
数ヶ月後、劉聡はその太子の劉粲に
劉雅生ら歩兵、騎兵十万を率いさせて
孟津の北岸に駐屯させ、
劉雅生を分けて洛の趙固を攻撃させた。
趙固は陽城山へ奔走し、
弟を遣わして危急を告げると、
李矩は郭誦を洛口に駐屯させる事で
これを救援した。
郭誦は部将の張皮に
精兵千人を選抜させて
夜に渡河させた。
劉粲の斥候に兵が至った事を
告げる者がいたが、
劉粲は軍勢が衆い事を恃みとして
恐れる程のものとは見なさなかった。
既に郭誦らは奄然と至っており
十の道から倶に攻撃してきたため、
劉粲の部衆は驚愕、擾乱して
一挙に潰走し、大半が殺傷された。
(郭誦は)そこで敵陣に據り、
獲得した器械や軍資は
数えきれない程であった。
黎明に及んで、劉粲は
張皮らの人数が少ない事を見て
改めて劉雅生とともに
残った部衆の悉くを率いて
これを攻撃してきた。
二十余日も苦闘したが
下す事はできなかった。
李矩は前進してこれを救援し、
壮士三千に船を浮かべさせて
張皮を迎えた。
賊は河に臨んで陣をつらね、
長鉤を作ることで
船に引っ掛けてきた。
連戦する事数日となったが
渡る事はできなかった。
李矩は夜に部衆の格増を遣わして
密かに渡河させ
張皮の塁壁へ入らせた。
(格増は)張皮とともに
精鋭騎兵千余りを選抜して
獲得した牛馬を殺し、
器械を焼き払うと、
夜に包囲に穴を開けて脱出し
武牢へと奔った。
劉聡はこれを追ったが
及べずに退却した。
劉聡はこの事に憤怒し
病を発して死んでしまった。
帝はその功績を嘉し、
李矩を都督河南三郡軍事、
安西将軍、滎陽太守に除し、
修武県侯に封じた。
(註釈)
317年11月、趙固と郭黙が
匈奴漢の領土となった河東を攻め
絳邑へと至ると、
右司隸の三万余がこれに奔った。
騎兵将軍の劉勲がこれを追討し
一万余人を殺傷。
趙固と郭黙は撤退した。
劉頡が遮ろうとしたが
趙固の為に敗れた。
劉粲及び劉雅(劉雅生)に
趙固を討伐させ、小平津に宿次。
318年3月、
李矩は郭黙と郭誦に趙固を救援させて
洛汭に駐屯させるとともに
耿稚と張皮に劉粲を襲撃させた。
貝丘王の劉翼光が劉粲に報告したが
劉粲は「来れるわけねーよ」と
高を括っており、
耿稚らの夜襲を受けて陽郷へ逃げる。
耿稚は劉穀の砦の穀物を回収。
劉雅生はダッシュで戻ると
砦の外に柵をつくり
耿稚と睨み合いに。
劉聡が太尉の范隆を差し向けると
ビビった耿稚らは五千を率い
包囲を突破して南下したが
劉勲の追撃を受け河陽に大敗。
三千五百人の死者と
千余りの水死者がでた。
というのが劉聡載記の記述。
318年6月癸亥に劉聡が死んだ。
李矩伝だと憤死した感じに書かれている。
子の劉粲が即位するが、
配下の靳準がクーデターを起こす。




