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淡々晋書  作者: ンバ
第五十七、滕修伝
279/313

二〜四、声より忠/交阯担当

2.

太康九年卒,請葬京師,帝嘉其意,賜墓田一頃,諡曰聲。修之子並上表曰:「亡父修羈絏吳壤,為所驅馳;幸逢開通,沐浴至化,得從俘虜握戎馬之要;未覲聖顏,委南籓之重,實由勳勞少聞天聽故也。年衰疾篤,屢乞骸骨,未蒙垂哀,奄至薨隕。臣承遺意,輿櫬還都,瞻望雲闕,實懷痛裂。竊聞博士諡修曰聲,直彰流播,不稱行績,不勝愚情,冒昧聞訴。」帝乃賜諡曰忠。

(訳)

太康九年(288)に卒し、

京師に埋葬して欲しいと要請した。

帝はその意を嘉して

墓田一頃を賜り、声と諡した。


滕修の子の滕並が上表して言った。


「亡父の修は、呉の土壌を羈絏(掌握)し

その為に馳せ駆けておりました。


幸いにも開通にめぐり逢い

沐浴して染化をこうむるに至り、

俘虜にして兵馬を戒める要諦を

掌握する立場を得ました。


いまだご尊顔を拝見できぬうちに

南方の封地の重役を委ねられたことは

実際には勲労が少ない事に由り

ご聖聴をいただけたが故にございます。


(父は)年を取り病が重篤となると

屢々骸骨(引退)を乞いましたが、

いまだご垂哀あわれみを蒙らぬうち

たちまちのうちに薨隕(逝去)に至りました。


臣は(亡父の)遺志を承け

棺を輿に乗せて都へ帰還し

雲闕(朝廷)を仰ぎ見て

実に痛烈な気持ちをいだいたのです。


ひそかに聞くところでは

博士は修(父)に

声と諡したそうですが、

ただ流播(流離)した事を

彰らかにするのみで、

行いや業績については

称えられておりません。

愚心はたえがたく、不躾ながらも

訴えをお耳にとどけたのでございます」


帝はかくて、忠の諡を賜った。



3.

並子含,初為庾冰輕車長史,討蘇峻有功,封夏陽縣開國侯,邑千六百戶,授平南將軍、廣州刺史。在任積年,甚有威惠,卒諡曰戴。含弟子遁,交州刺史。

(訳)

滕並の子の滕含とうがん

初め庾冰ゆひょうの軽車長史となり、

蘇峻そしゅんの討伐に功が有ったため

夏陽県開国侯となった。

食邑は千六百戸で

平南将軍、広州刺史を授かった。


在任して年をかさね、

甚だ威恵があった。

卒すると、戴と諡された。


滕含の弟の子の滕遁とうとんは、交州刺史。


4.

修曾孫恬之,龍驤將軍、魏郡太守,戍黎陽,為翟遼所執,死之。

(訳)

滕修の曾孫の滕恬之は

龍驤将軍、魏郡太守であり、

黎陽れいようを戍衛していたが、

翟遼てきりょうに捕われる所となり、死んだ。


(註釈)

呉が平定されて8年で亡くなった。

「声」の諡を賜ったが

あまりいい意味ではないもよう。


諡法解によると、

「不生其國曰聲」

旧国を全うできなかったってニュアンスかな。


子の滕並の訴えにより

諡は「忠」に改められた。


東晋の代に入っても

続いて滕氏は交阯の鎮撫を担当した。


・滕修評価


戦闘 ★★★★★ 5

郭馬に勝ててない。

郭馬も強いかどうかよくわからんけど。


戦略 ★★★★★ 5

加点要素なし


内政 ★★★★★★ 6

人格 ★★★★★★ 6

蛮夷を手懐けていたので

この二項は評価が高い。


次は李矩伝です。


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