七、陸抗登場
7.
及還鎮,吳西陵督步闡舉城來降。吳將陸抗攻之甚急,詔祜迎闡。祜率兵五萬出江陵,遣荊州刺史楊肇攻抗,不克,闡竟為抗所擒。有司奏:「祜所統八萬餘人,賊眾不過三萬。祜頓兵江陵,使賊備得設。乃遣楊肇偏軍入險,兵少糧懸,軍人挫衄。背違詔命,無大臣節。可免官,以侯就第。」竟坐貶為平南將軍,而免楊肇為庶人。
(訳)
(荊州の)鎮撫に帰還するに及び
呉の西陵督の歩闓が
城を挙げて来降してきた。
呉将の陸抗が歩闓を急激に攻め立て、
詔によって羊祜は歩闓を迎えた。
羊祜は兵五万を率いて江陵から出撃し、
荊州刺史の楊肇に陸抗を攻撃させたが
勝利する事ができず、歩闓も竟には
陸抗に擒われる所となった。
有志の上奏文にいう、
「羊祜は八万余人を統括しておりましたが
賊の軍勢は三万足らずでございました。
羊祜は江陵に兵を留め
賊に備えを設けさせまして、
(グズグズしていてすぐに攻撃せず)
そこで楊肇の軍を補佐として遣り
険阻な地に入らせましたが、
兵は少なく、糧秣からは懸隔(離れる)し
軍中の者は挫衄(疲弊)してしまいました。
勅命を違える事になりました羊祜には
大臣の節義はございません。
免官(降格)させ、侯として
回家(家に帰す)させるべきでございましょう」
結局、平南将軍に降格となり、
楊肇は罷免されて庶人となった。
(註釈)
272年、呉の功臣であった
歩騭の孫の歩闓が、
呉帝孫皓の暴政に耐えかね、晋に降伏。
(孫皓から武昌へ召還命令が出たため
誅殺されるのを恐れて晋に奔った)
この討伐に、同じく功臣の
陸遜の子である、陸抗が当たります。
羊祜は詔勅によって
歩闓の援護を命じられますが、
荊州刺史の楊肇に委任して
自身はサポートに回りました。
フェイント仕掛けたりはしたのですが
結局陸抗に勝利する事はできず、
歩闓は捕らわれ、晋の人質となっていた
甥を除いて、三族皆殺しとなります。
在りし日の歩騭は
あんなに頑張ったのに、
歩家はこうして
ほぼお家断絶となりました。
孫権と歩夫人との間に男子さえいればなぁ。
歩家はお気の毒でしたが
この西陵の一戦では、
陸抗のキレキレの計略が光ってます。
陸抗にいいようにやられた羊祜は
車騎将軍から平南将軍に降格となり
楊肇は州刺史から一挙に
庶民まで落とされてしまいました。
一方の陸抗、大勝利をあげたにも関わらず
得意になることが一切なかったため
周囲はますます彼に
敬意を払うようになったとか。
274年には陸抗
278年には羊祜が亡くなりますが、
ふたりのファーストコンタクトが
272年だったのが意外です。
もっと早くから面識あったのかと。




