四、謙と遜
4.
武帝受禪,以佐命之勳,進號中軍將軍,加散騎常侍,改封郡公,邑三千戶。固讓封不受,乃進本爵為侯,置郎中令,備九官之職,加夫人印綬。泰始初,詔曰:「夫總齊機衡,允厘六職,朝政之本也。祜執德清劭,忠亮純茂,經緯文武,謇謇正直,雖處腹心之任,而不總樞機之重,非垂拱無為委任責成之意也。其以祜為尚書右僕射、衛將軍,給本營兵。」時王佑、賈充、裴秀皆前朝名望,祜每讓,不處其右。
(訳)
武帝(司馬炎)が禅譲を受けると、
天命を補佐する勲功があった事から
昇進して中軍将軍を号し、
散騎常侍を加えられて郡公に改封され
食邑は三千戶となったが、
謙譲さから固辞し、封爵を受けなかった。
こうして本爵は侯に進み、
(羊祜の所領に)郎中令が配置され
九官の職が備えられ、
夫人(羊祜の妻)も印綬を加えられた。
泰始年間(265〜274)の初めに
下された詔勅にいう、
「そもそも、機衡を総括し
六職を当然として理めることが
朝廷の政治の根本である。
羊祜の徳行は清く美しく、
忠良聡明にして温純かつ優秀で、
文武を経緯し、※謇謇として正直である。
(※忠義を尽くす様)
腹心の任に処されていると雖も
枢機の重任を総べておらず、
垂拱せぬことは、任を委ねるという
責成(国家事業の完成)の意思にそぐわぬ。
こうした現状から
羊祜を尚書右僕射、衛将軍に任命し
本営の兵士を供給せん」
当時、王佑、賈充、裴秀らは
みな、前王朝(魏)にて名望があり
羊祜は常に謙って
彼らの右に出る事はしなかった。
(註釈)
263年、鄧艾と鍾会の
遠征軍により、成都の劉禅は降伏。
蜀将の姜維は、鍾会を誘引して
ふたたび劉禅を帝位に即け
再起を狙うものの、結局失敗。
鄧艾も讒言によって殺されてしまい
かくして三国の一角は
血風とともに落ちていきました。
皇帝弑逆、蜀を滅ぼした事により
司馬昭の権勢はますます高まり
司馬家に逆らえる者は
もはや誰もいなくなりました。
干宝の「晋紀」と
孫盛の「魏氏春秋」では
魏の元勲二世の陳泰が
「賈充を殺して天下に謝罪しよう」
と述べています。
司馬昭「他にうまいやり方ないの」
陳泰「ないです」
とバッサリ。
「魏氏春秋」の方では、直後に陳泰が
血を吐いて死んだことになっています。
そして265年、司馬昭が亡くなり、
子の司馬炎が、魏の皇帝曹奐から
禅譲を受け、曹魏は滅亡──
太祖曹操
初代曹丕(220〜226)
2代曹叡(226〜239)
3代曹芳(239〜254)
4代曹髦(254〜260)
5代曹奐(260〜265)
5代46年の歴史に幕を閉じます。
羊祜は、晋の創業の功績があったとして
(なんかやったっけ?)
公になれるチャンスがありましたが
謙虚さから固辞したため、
ワンランク下の侯に。
偉くなっても調子に乗らないのは
立派な事ですが、よりによって
賈充なんかにへり下らなくていいよ。
賈充は、見方によっては
汚れ役を買って出ただけで、
北方張飛や呉漢(滅私の汚れ役)に
近いキャラなのかもしれませんが、
それでも好きになれません。
晋に降伏した孫皓と
司馬炎・賈充の間でこんなやりとりが。
司馬炎
「この座を設けて、君が来るのを
久しく待っていたぞ!」
孫皓
「私も江南で座を設けて
陛下のことをお待ちしておりました」
賈充
「呉だと人の皮を剥いで
目玉をくり出す処刑法が
あったそうですが、
どーゆー刑罰なんですか?」
孫皓
「ああ……奸計を巡らせて
主君を弑するような不届き者に
適用していた刑罰なんですよ」
賈充
「」
賈充は目の前が真っ暗になった!
キレキレのカウンターですき。




