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淡々晋書  作者: ンバ
第三十四、羊祜伝
188/313

三、出仕

3.

文帝為大將軍,辟祜,未就,公車徵拜中書侍郎,俄遷給事中、黃門郎。時高貴鄉公好屬文,在位者多獻詩賦,汝南和逌以忤意見斥,祜在其間,不得而親疏,有識尚焉。陳留王立,賜爵關中侯,邑百戶。以少帝不願為侍臣,求出補吏,徙秘書監。及五等建,封钜平子,邑六百戶。鐘會有寵而忌,祜亦憚之。及會誅,拜相國從事中郎,與荀勖共掌機密。遷中領軍,悉統宿衛,入直殿中,執兵之耍,事兼內外。


(訳)

文帝(司馬昭しばしょう)は大将軍となり

羊祜を招辟しょうへきしたが、まだ就任せぬうちに

公車(お上?)に徴されて

中書侍郎ちゅうしょじろうに拝され、

俄かに給事中きゅうじちゅう黄門郎こうもんろうに遷った。


当時、高貴郷公(4代皇帝曹髦(そうぼう))は

属文しょくぶん(文章を綴る事)を好んでいたため

位に在る者の多くは詩賦しぶを献じた。


汝南の和逌かゆうは(曹髦の)意に

逆らったために排斥されたが、

羊祜は、両者の間に立って

親しむ事も遠ざける事もしなかったため

有識者は羊祜の事をとうとんだ。


陳留王(5代皇帝曹奐(そうかん))が立つと、

関中侯の爵位を賜り、食邑は百戸となった。


少帝(曹奐)は

羊祜を侍臣とする事を願わず、

外部へ転出させて

補佐官とする事を求めたため、

羊祜は秘書監ひしょかんに遷った。


五等爵が建てられるに及んで

钜平きょへいの子爵に封じられ、

食邑は六百戸となった。


鍾会しょうかい鍾繇しょうようの息子)は、

寵遇を受けるようになると

羊祜の事を忌み嫌い、

羊祜もまた、彼の事を憚った。


鍾会が誅殺されると、

相国従事中郎しょうこくじゅうじちゅうろうに拝され

荀勖じゅんきょくとともに機密を掌った。


中領軍に遷ると

宿衛の悉くを統括し、

殿中に入りて宿直して

内外を兼ねて事える兵の枢要を握った。


(注釈)

魏王朝末期。


司馬懿の権勢を継いだ長男司馬師(しばし)

254年に皇帝曹芳を廃位。


理由は、

「曹芳がいい年になっても

行いを慎まないから」


……というのは建前で、実際は

李豊りほう夏侯玄かこうげんらが

司馬氏の権勢を憎み、皇帝を抱き込んだ上で

司馬師のことを排除せんとしたからでした。


司馬師の奥さんは夏侯玄の妹でしたが

234年に毒殺されています。

その後5人の娘がどうなったのかは不明。


バチが当たったのか、後妻である

羊祜の姉さんとの間には

男子ができませんでした。


この曹芳、8歳から23歳まで

帝位に在ったワケなのですが、

若かった故か、情報が殆どないので

どんな人なのかよくわかりません。

これは逆に、創作に活かせるかも?


かくして、廃位された曹芳に代わり

周囲の期待を受けて即位したのが

曹丕の孫、曹髦そうぼうでした。


「曹操の生まれ変わり」と称されるほど

評判の高かった彼は、当時15歳。


羊祜伝のここの記述からもわかるように

文章を綴ったり、談論を好んだようで

その才能を曹植にも比せられたとか。


この時代になると、

皇帝の実権は有名無実化し

殆ど司馬氏の傀儡となっていました。


曹髦は20歳の時に意を決し、

司馬昭を討伐しようと

クーデターを起こすのですが……

計画を持ち掛けられた王沈おうしんらが

(王沈は石勒せきろくと敵対した王浚おうしゅんの父)

司馬昭に密告してしまったために

あっさりと事は露見。


そうして、司馬昭の側近の

賈充かじゅうとその配下から

要撃されてしまいます。


食客らは、天子に手を出すことを

ためらっていたのですが、

この時、賈充は

「あとで罪に問わないから」と約束。


かくて、

太子舎人の成済せいさい

皇帝曹髦にほこを向けます。


この時、

「刃が背中まで貫通していた」

という記述があり、そのまま

曹髦は死に至りました。


後漢の御代に

梁冀りょうきが皇帝を毒殺した事件が

ありましたが、臣下が白昼堂々

皇帝を刃にかけるなどとは言語道断。


後代、皇帝の首が挿げ替えられるのは

割と頻繁に起こるようになりますが

その嚆矢・先鞭となったのが

ここにおける、賈充の所業なのでは……


「魏氏春秋」によると、

司馬懿の弟、司馬孚しばふ(当時81歳)と

陳羣ちんぐんのむすこの陳泰ちんたい

曹髦の遺体に腿枕をして

号泣したとされます。

(晏嬰の故事に倣った追悼)



司馬昭と賈充は、その後

皇帝殺しの罪を、すべて

成済の一族に押し付け、皆殺しに。

彼らは初めから、捨て駒だったのです。


すべてを悟った成済は

屋根に登って、司馬昭と賈充に

罵詈雑言を浴びせたといいます。


そして、

「曹髦は皇太后を殺害しようとしたので

返り討ちにしてくれたわ」という

デタラメな公式発表がなされました。


こんなやり方で天下を取ってもなぁ。


三国志の著者である陳寿ちんじゅは、

晋王朝の臣下という立場上、

この「皇帝弑逆」という一大事件を

克明に記すことができず、

なんの脈絡もなく曹髦が「卒した」と綴り

さらに死んだ場所を明記しないという形で

どうにか異常事態だったという事実を

伝えようとしています。


後年、劉宋の史家・裴松之はいしょうし

三国志に注釈を付け、その中で

ようやくこの事件が補足されました。


羊祜はこうした情勢の中で

魏帝に積極的に関与しようとはしません。


中立の立場を装ってはいますが

内心では落ち目の魏、傀儡の皇帝を見限り

家族に累が及ぶのを避けたのでしょう。


夏侯氏とも司馬氏とも

繋がりがある羊氏、

新体制に移行する中で

なかなか難しい立ち回りを

要求されています。


魏の元勲二世・鍾会しょうかいとは不仲でしたが、

彼は、263年の蜀討伐の際に

野心を露わにして誅殺されてしまいます。

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