表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
淡々晋書  作者: ンバ
第八十二、陳寿伝
184/313

一、不遇を託つ譙周の弟子/三国志誕生

1-1.

陳壽,字承祚,巴西安漢人也。少好學,師事同郡譙周,仕蜀為觀閣令史。宦人黃皓專弄威權,大臣皆曲意附之,壽獨不為之屈,由是屢被譴黜。遭父喪,有疾,使婢丸藥,客往見之,鄉黨以為貶議。及蜀平,坐是沈滯者累年。司空張華愛其才,以壽雖不遠嫌,原情不至貶廢,舉為孝廉,除佐著作郎,出補陽平令。撰蜀相諸葛亮集,奏之。除著作郎,領本郡中正。


(訳)

陳寿ちんじゅは字を承祚しょうそといい

巴西はせい安漢(あんかん)県の人である。


少くして学問を好み、

同郡の譙周しょうしゅうに師事して

蜀に仕え、観閣令史かんかくれいしとなった。


(末期の蜀において)

宦官の黄皓こうこうが権威を専らにしており

大臣らは皆意を曲げて

彼にへり下っていたが、

陳寿だけは屈することがなく、

こうした理由からしばしば

譴黜けんちゅつ(謗られて降格される)

を被ることとなった。


父の喪中に病に罹り、

婢女に丸薬を作らせていたのを

客が来た際に見られてしまい、

(親の服喪期間に自分の身を労わることは

儒教におけるタブーとされていた)

郷党から誹りを受けた。


蜀が平定されるまで(263年)、

このように坐して沈滞したまま

年をかさねていた。


晋の司空の張華ちょうかはその才覚を愛し、

陳寿については

嫌忌される事は遠からずといえども

原因を究明すれば

免官される程ではないと考えていた。


推挙されて孝廉こうれんとなり、

佐著作郎さちょさくろうに除され、

転出して陽平令ようへいれいされた。


蜀相しょくしょう諸葛亮しょかつりょうしゅう」を著述し、上奏した。


著作郎ちょさくろうに除され、

本郡の中正官ちゅうせいかんを拝領した。



(註釈)


当時のお偉いさんにおもねらず、

更に、儒教のタブーに触れてしまうという

二つの地雷を踏んでしまったために

蜀では全く出世できなかった陳寿。


常璩じょうきょの著した

華陽国志かようごくし」の中では

このへんの事情は書かれてません。


晋書の方が後になって書かれてるので

ゴシップの類の可能性があります。


とりあえず、蜀にいた頃は

そこまで目立つ存在では

なかったであろう陳寿。


蜀が滅んだ時は31歳でしたが、

元同僚・同門の羅憲らけん

司空の張華ちょうかに推挙されて

晋国への仕官が叶った彼は

著作の「諸葛亮集」を上奏して

その才能を認められてゆきます。


師匠の譙周しょうしゅうさまは

益州を代表する文学者。


鄧艾とうがいが攻めてきた際に

十分な余力があったにも関わらず

蜀帝劉禅(りゅうぜん)に降伏を勧めた事から

時には売国奴と罵られたりもします。


1-2.

撰魏、吳、蜀、三國志,凡六十五篇。時人稱其善敘事,有良史之才。夏侯湛時著魏書,見壽所作,便壞己書而罷。張華深善之,謂壽曰:「當以晉書相付耳。」其為時所重如此。或云丁儀、丁暠有盛名于魏,壽謂其子曰:「可覓千斛米見與,當為尊公作佳傳。」丁不與之,竟不為立傳。壽父為馬謖參軍,謖為諸葛亮所誅,壽父亦坐被髡,諸葛瞻又輕壽。壽為亮立傳,謂亮將略非長,無應敵之才,言瞻惟工書,名過其實。議者以此少之。


(訳)

魏・呉・蜀の「三国志さんごくし」、

およそ六十五篇を編纂した。


当時の人々は

三国志の叙事の善き事を称え、

(陳寿には)良質な史家の才能があるとした。


夏侯湛かこうたんはこの時、

「魏書」を著していたが、

陳寿の著作を見ると

すぐに自分の著書を破棄して

(歴史の著述を)やめてしまった。


張華は深くこの事をよみして

陳寿に言った。


「まさに晋書と(三国志)は

互いに付託するであろうな」


(「晋書も君が書けば?」 もしくは

「三国志は正史と見なされるだろう」

と、絶賛している)


陳寿が当時重んじられていた事は

かくのごとくであった。


或る者は、

丁儀ていぎ丁暠ていこうが魏において名高く、

陳寿がその子に対して

こう述べたと云っている。


「千斛の米を与えてくれたなら

尊公(君のオヤジさん)の為に

佳い伝を作ってさしあげましょう」


丁氏はこの申し出に応じず、

ついに伝が立てられる事はなかった。


陳寿の父は馬謖ばしょくの参軍となっており、

馬謖が諸葛亮しょかつりょうに誅殺されると、

陳寿の父もまた坐して

髡刑こんけいを被ったとされ、

(諸葛亮の子の)諸葛瞻しょかつせん

また陳寿から軽侮されている。


陳寿が「諸葛亮伝」を立てると、


「諸葛亮は軍略に長じておらず、

敵に応じる才能がない」


と謂っており、


「諸葛瞻はただ書にたくみなだけで

名がその実を過ぎている」


と言っている。


人々は、陳寿のこうした記述は

(諸葛亮や諸葛瞻に対する)

過小評価ではないかと議した。



(註釈)


これ書いた人、

ちゃんと三国志読んでるのかな?


陳寿は諸葛亮のこと

めっちゃリスペクトしてると

思うんですが……。


「軍略は得意でなかった、

臨機応変の才はなかった」


の前の部分では、


「諸葛亮は公正な政治を行った。

忠義者は仇であっても必ず賞を与え、

犯罪者はたとえ身内であっても必ず罰した。


反省した者は重罪人でも必ず赦し

嘘をつく者は軽い罪でも必ず死刑にした。


あらゆる事柄に精通し、

嘘偽りは歯牙にもかけなかった。


領土内の人々は、みな彼を尊敬し愛した。

刑罰、政治が厳格であったにも関わらず

怨む者がいなかったのは、

彼の配慮が公平で、

賞罰が明確であったからである。


政治を熟知している賢才であり、

管仲、蕭何に匹敵する」


と、めちゃくちゃに褒めてるし、

けなすにしたって

婉曲的表現を用いてます。


敬愛する人物の欠点もちゃんと

書いているのがむしろ偉いですよ。


賄賂を寄越さなかったから

列伝に載せなかったとかいうのも

どうなんでしょう、ほんまかいな。


丁儀は曹操の後継者争いになった時

曹植そうち派に属して、曹丕そうひを降格させようと

躍起になってきたようで

曹丕の恨みを買い、殺されました。


そもそも彼は列伝を立てられるに

足る人物なのか?

その辺がちょっと微妙です。



恩人・張華ちょうかは華陽国志の中でも

司馬遷しばせん班固はんこよりすごい!」と

陳寿に最大級の賛辞を送っています。


三国志は、史記と漢書を超えてるぞ! と。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ