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淡々晋書  作者: ンバ
第百五、石勒載記下
182/313

百二十八、さらば乱世の特異点

128.

勒疾甚,遺令:「三日而葬,內外百僚既葬除服,無禁婚娶、祭祀、飲酒、食肉,征鎮牧守不得輒離所司以奔喪,斂以時服,載以常車,無藏金寶,無內器玩。大雅沖幼,恐非能構荷朕志。中山已下其各司所典,無違朕命。大雅與斌宜善相維持,司馬氏汝等之殷鑒,其務于敦穆也。中山王深可三思周霍,勿為將來口實。」以咸和七年死,時年六十,在位十五年。夜瘞山谷,莫知其所,備文物虛葬,號高平陵。偽諡明皇帝,廟號高祖。

(訳)

石勒は病が重篤となると

遺命を下した。


「三日で葬り、内外の百僚は

葬儀の後に(喪)服を脱ぐように。


婚姻、祭祀、飲酒、食肉を禁じてはならぬ。


征鎮(将軍たち)、牧守(行政官)は

司る所を離れて葬儀に駆けつけてはならぬ。


時服にて収斂(納棺?)し

常車に載せ、金宝や器玩を

中に納めたりせぬように。


大雅たいが(太子石弘のあざな)は

沖幼(幼い)であり、朕の遺志を

荷えぬのではないかと恐れておる。


中山(石虎)以下、各司は

統制する所にて朕の命に違わぬように。


大雅とひん(石斌)とは

宜しく互いを維持するように。

司馬氏は汝らの※殷鑒である、

敦穆に務めるのだぞ。


(※身内同士で殺しあっていた

司馬氏のようになってはいけない、

兄弟仲良くしなさいよ)


中山王は、周公旦しゅうこうたん霍光かくこう

深く三思するように。

将来の口実にしてはならんぞ」


咸和七年(333)に死去した。

この時六十歳、在位十五年であった。


夜に山谷にうずめられ(埋葬され)

その場所を知る者はなかった。

文物を備えて虛葬され

(陵墓は)高平陵と号された。


偽って明皇帝と諡され、

廟号は高祖とされた。


(註釈)

巨星、墜つ。

正統王朝扱いではないので

死の表現も「崩」ではなく

「死」と味も素っ気もなく書かれてます。


石勒の母親が亡くなった際も

山野にひっそりと葬られたけど

石勒も同様。これが羯族スタイル?



奴隷に落ちてから、

戦って戦って、戦い抜いた三十年。

ものすごい密度でした。


333年には後趙の石勒、

前燕の実質的創始者である慕容廆ぼようかい

334年は成漢の李雄りゆうが亡くなっています。


彼らの死を以て、五胡十六国時代の

序盤戦は終了といった雰囲気です。


中盤戦は、石虎の台頭(334)から

後趙の崩壊(349)、前秦の成立、

苻堅ふけんが河北統一して

そして、死ぬまで(385)になります。


まだまだ紹介してない英雄が山ほどいますが

生命力は石勒が一番かも。

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