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淡々晋書  作者: ンバ
第百五、石勒載記下
171/313

百十三・百十四、みたび郭敬

113.

勒荊州監軍郭敬、南蠻校尉董幼寇襄陽。勒驛敕敬退屯樊城,戒之使偃藏旗幟,寂若無人,彼若使人觀察,則告之曰:「自愛堅守,後七八日大騎將至,相策不復得走矣。」敬使人浴馬於津,周而復始,晝夜不絕。偵諜還告南中郎將周撫,撫以為勒軍大至,懼而奔武昌。敬入襄陽,軍無私掠,百姓安之。晉平北將軍魏該弟遐等率該部眾自石城降於敬。敬毀襄陽,遷其百姓于沔北,城樊城以戍之。

(訳)

石勒の荊州監軍・郭敬かくけい

南蛮なんばん校尉・董幼とうよう襄陽じょうようへ侵攻した。


石勒は駅書によって勅語し、

退却して樊城はんじょうに駐屯するように

郭敬を戒め、旗や幟を隠して

人がいないかのように静かにさせ、

敵方がもし人をやって観察させてきたなら

そこでこのように告げろ、と言った。


「汝らは自愛して堅守しておくべきだ。

あと七、八日で大軍の騎兵が至れば

もう逃げることしかできなくなる」


郭敬は人を遣って津周しんしゅうで馬に水浴びをさせ、

終わればまた始め、昼夜絶やさなかった。


間諜は帰還して

晋の南中郎将・周撫しゅうぶに次第を報告した。

周撫は石勒軍が大挙して

至ったものだとして懼れ、

武昌ぶしょうへと奔走していった。


郭敬は襄陽へ入り、

軍に私的な略奪をさせず

百姓はこの事に安堵した。


晋の平北将軍・魏該ぎがいの弟の魏遐ぎからが

魏該の部べる手勢を率いて

石城より郭敬に降伏してきた。


郭敬は襄陽をこわして

その百姓を沔北べんほくへ遷した。

樊城に城を築いてこれを戍衛した。


(註釈)

郭敬かくけいひさしぶり!!

27節で再登場して以来かな。


絶えず血の雨が降っている

この時代にあって

うそみたいな聖人です。


晋書では郭敬の族子の

郭時かくじ」が出てくるのですが

十六国春秋では郭時なんて人間は

出てきていないような……。



114.

秦州休屠王羌叛于勒,刺史臨深遣司馬管光帥州軍討之,為羌所敗,隴右大擾,氐羌悉叛。勒遣石生進據隴城。王羌兄子擢與羌有仇,生乃賂擢,與掎擊之。羌敗,奔涼州。徙秦州夷豪五千餘戶於雍州。

(訳)

秦州休屠(きゅうと)王羌おうきょうが石勒に叛き、

刺史の臨深りんしんは司馬の管光かんこう

州の軍勢を率いさせてこれを討った。


王羌が敗れる所となると

隴右ろうゆうは大いに擾乱し

氐族・羌族は悉く叛いた。


石勒は石生せきせいを進軍させろう城に拠らせた。


王羌の兄の子の王擢おうてき

王羌との間に仇隙きゅうげき(不和)があり、

石生はそこで王擢にまいないを送って

これを挟み撃ちにした。


王羌は敗れ、涼州へ奔走した。


秦州の夷狄の豪族五千余戸を

雍州へと移した。


(注釈)

石生は相手をよく見てますね。


西方の夷狄をどんどん

中原に移していく石勒。

人口=国力ってのをよくわかっています。

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