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淡々晋書  作者: ンバ
第百五、石勒載記下
158/313

九十〜九十二、両趙交戦

90.

石生攻劉曜河內太守尹平于新安,斬之,克壘壁十餘,降掠五千餘戶而歸。自是劉、石禍結,兵戈日交,河東、弘農間百姓無聊矣。


(訳)

石生せきせいが劉曜側(前趙)の

河内太守である尹平いんへい新安しんあんに攻め

これを斬って十余の塁壁に勝利、

降伏した五千余戸を掠め取って帰還した。


(このことで)

劉氏(洛陽の前趙)・石氏(襄国の後趙)

に禍根が生まれ、

兵戈は連日のように交えられ

河東かとう弘農こうのう間の百姓は不安に陥った。


(註釈)


三代皇帝・劉聡りゅうそう

318年に没してから

西の劉曜りゅうようと東の石勒で

真っ二つに分かれた匈奴漢。


石勒側が国号を「趙」として

独立色を鮮明にすると、

なんと劉曜側も国号を

「趙」に変更しています。


ゆえに石勒側を「後趙」

劉曜側を「前趙」と呼んで区別します。


建前上は、中山で即位したから

という事になっていますが、

融和ではありません。

石勒とともに天は戴かない、

貴様の存在など認めない……

という意思表示と思われます。


元味方だった手前、ここまで

あまり接触してこなかった両趙でしたが

ここにきてとうとう本格開戦。


やはり、并・幽・冀・青・兗・徐・司の

七州に跨る後趙の方がやや有利かな。


「民からしたらいい迷惑」って

わざわざ書いてるのがなんとも。


91.

以右常侍霍皓為勸課大夫,與典農使者硃表、典勸都尉陸充等循行州郡,核定戶籍,勸課農桑。農桑最修者賜五大夫。


(訳)

右常侍の霍皓かくこう勧課かんか大夫として

典農使者てんのうししゃ硃表しゅひょう典勧てんかん都尉とい陸充りくじゅうらに

州郡を循行させて戸籍を査定し、

農業と養蚕を奨励した。


農業・養蚕を最も修めた者には

五大夫を賜った。


(註釈)

国政調査的なやつかな。


范曄なら循行のところ徇って書くだろうね。


92.

使石生自延壽關出寇許潁,俘獲萬餘,降者二萬,生遂攻陷康城。晉將軍郭誦追生,生大敗,死者千餘。生收散卒,屯于康城。勒汲郡內史石聰聞生敗,馳救之,進攻郭默,俘獲男女二千餘人。石聰攻敗晉將李矩、郭默等。


(訳)

石生を延寿関えんじゅかんから出撃させて

許昌きょしょう潁川えいせんを攻め、

万余の俘虜を獲得し、

降伏してきた者は二万、

石生はかくてこう城を攻め落とした。


晋の将軍・郭誦かくようが石生を追ってきて

石生は大敗を喫し、千余の死者を出した。

石生は離散した兵卒を集めて

康城へ駐屯した。


石勒の汲郡きゅうぐん内史・石瞻せきせん

石生が敗北したと聞いて

これを救援するために駆けつけ

進軍して郭黙を攻めた、

男女二千余人の俘虜を獲た。


石瞻は晋将の李矩りく郭黙かくもくらを攻め破った。


(註釈)

石瞻せきせん石生せきせいもなかなか頼りになりますね。


石瞻は石虎の養子であり

もともとは漢民族です。


この石瞻の息子こそが

例の冉閔ぜんびんであり、

石趙は彼に滅ぼされることになります。

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