六十二、趙国の夜明け
石勒載記上巻のあらすじ。
石勒は并州上党郡出身の異民族。
食糧難で官兵に奴隷として売り飛ばされ、
仲間と群盗になり、晋王朝に反旗を翻す。
司馬越や苟晞にボコボコにやられて
劉淵の漢に帰順した石勒は、
漢人幕僚・張賓を参謀に迎え、
漢の尖兵として河北を平定。
やがて襄国を拠点に頭角を現してゆく。
310年に劉淵、
318年に後継の劉聡が亡くなり、
靳準が漢の都平陽にて反乱を起こし、
跡目争いにより、以降の漢は
大将軍石勒と
相国劉曜の二大派閥に分裂。
独立色を鮮明にした石勒は
319年、とうとう趙王を名乗る。
中原の覇者となるのは、
石勒か!? 劉曜か!?
というところから、下巻に入ります。
62.
太興二年,勒偽稱趙王,赦殊死已下,均百姓田租之半,賜孝悌力田死義之孤帛各有差,孤老鰥寡谷人三石,大酺七日。依春秋列國、漢初侯王每世稱元,改稱趙王元年。始建社稷,立宗廟,營東西宮。署從事中郎裴憲、參軍傅暢、杜嘏並領經學祭酒,參軍續咸、庾景為律學祭酒,任播、崔濬為史學祭酒。中壘支雄、遊擊王陽並領門臣祭酒,專明胡人辭訟,以張離、張良、劉群、劉謨等為門生主書,司典胡人出內,重其禁法,不得侮易衣冠華族。號胡為國人。遣使循行州郡,勸課農桑。加張賓大執法,專總朝政,位冠僚首。署石季龍為單于元輔、都督禁衛諸軍事,署前將軍李寒領司兵勳,教國子擊刺戰射之法。命記室佐明楷、程機撰上党國記,中大夫傅彪、賈蒲、江軌撰大將軍起居注,參軍石泰、石同、石謙、孔隆撰大單于志。自是朝會常以天子禮樂饗其群下,威儀冠冕從容可觀矣。群臣議請論功,勒曰:「自孤起軍,十六年於茲矣。文武將士從孤征伐者,莫不蒙犯矢石,備嘗艱阻,其在葛陂之役,厥功尤著,宜為賞之先也。若身見存,爵封輕重隨功位為差,死事之孤,賞加一等,庶足以尉答存亡,申孤之心也。」又下書禁國人不聽報嫂及在喪婚娶,其燒葬令如本俗。
(訳)
太興二年(319)、石勒は趙王を僭称した。
死刑以下の罪人に特別に恩赦を施し、
百姓の田租の半分を均等に(免除し)、
※孝悌力田や殉死した者の遺児に
それぞれ差をつけて帛を、
子や伴侶に先立たれた老人や鰥の者には
各々三石(の穀物)を賜り、
七日間に渡って宴会を催した。
(※父母に順い、兄姉年長者を尊敬し、
農業に一生懸命つとめた者。
漢代の人物推挙の科目の一つだった)
春秋の列国や漢初期の侯王が世代ごとに
「○○元年」と称していた事に依り、
改元して「趙王元年」と称した。
初めて社稷を建て、
宗廟を立てて東西の宮殿を設営した。
従事中郎の裴憲、参軍の傅暢・杜嘏に
揃って経学祭酒を拝領させた。
参軍の続咸・庾景を律学祭酒に、
任播・崔濬を史学祭酒とした。
中塁の支雄、遊撃の王陽には
ともに門臣祭酒を拝領させて
胡族の訴訟問題の解決に専任させ、
張離、張良、劉群、劉謨らを
門生主書として、胡族の退出の典範を司らせることで、
禁則や法度を遵守させ、衣冠の華族を
侮易(軽視)する事を禁じた。
また、胡族の事は号して「国人」と為された。
使者を派遣して州郡を巡行させ、
農桑(農耕と養蚕)を奨励させた。
張賓に大執法を加冠して
総ての朝政を専断させ、
位は官僚に冠たるものとした。
石虎を署して
単于元輔・都督禁衛諸軍事、
前将軍の李寒を署して領司兵勲とし、
国子に矛や剣による撃・刺術、
弓による射術などの戦法を教授させた。
記室佐明楷(官職??)の程機に命じて
「上党国記」を、
中大夫の傅彪・賈蒲・江軌には
「大将軍起居注」を、
参軍の石泰・石同・石謙・孔隆には
「大単于志」をそれぞれ編纂させた。
(石勒は)自ら朝会に臨む際は、
常に天子の礼によって群臣配下を饗応した。
群臣が論功の協議を要請すると、石勒は言った。
「孤が挙兵してから十六年が経つ。
孤に付き従ってきた文武の将士で
矢石を蒙らなかった者は莫いが、
つぶさに辛酸を舐めたのは(一番キツかった戦は)
葛陂の戦役であり、
(この戦で)勲功が最も顕著であった者を
優先して褒賞すべきであろうな。
もしその身が健在であれば
封爵の軽重は功位に随って差を付け、
その死によって孤となった者(戦没者の遺族)
に対しては賞一等を加える。
庶わくば、存亡(生者と死者)に応えて
十分に慰労する事で、我が意向の表明としたい」
一方で書状を下して、
国人に嫂を娶る事、
及び喪中の婚儀を禁止させ、
その火葬についても命を下して
※本来の俗習の如くにさせた
(※胡族流から漢人流にシフトさせた)。
(註釈)
国家の基礎固めじゃ〜い。
恩赦、租税免除、インフラ整備、
新制度立案、漢文化への迎合、
戦没者と家族への手当、宮殿造営、
農業奨励、戦闘指南に調練、史書編纂。
学校も作ってたし、石勒って
民政のセンスなにげにあるげ?
また、胡族が建てた国家なので
胡族のことは「国人」と呼ばせるように
なったそうな。
挙兵からはや16年、
これまでの激闘を振り返った時に
一番きつかったと述懐するのは
やはり、葛陂の戦です。
疫病は蔓延するわ、
兵糧尽きて餓死しかけるわで、
踏んだり蹴ったりだったもんね。
張賓の策が外れてたら全滅してました。
石勒は大好きな張賓を
文官のトップに据えています。
しかし、右侯の寿命は
それほど残されておりません。




