十一、憂いをともに
11.
五年,天子南巡,觀兵吳疆。帝留鎮許昌,改封向鄉侯,轉撫軍、假節,領兵五千,加給事中、錄尚書事。帝固辭。天子曰:「吾於庶事,以夜繼晝,無須臾寧息。此非以為榮,乃分憂耳。」
(訳)
黄初五年(224)、天子は南巡し
兵士らに呉の強さを観察させた。
宣帝は許昌に留まりて鎮守し
改めて向郷侯に封じられ、
撫軍に転じ、節を仮され、
兵五千を統領し、
給事中・録尚書事を加えられた。
宣帝は固辞したが、天子は言った。
「吾《朕》は昼夜を通じて庶事に追われ
須臾ほども安息の時間を得られない。
これは君に
栄誉を与えようというのでなく、
憂いを分かち合いたいだけなのだ」
(註釈)
司馬懿が、軍事の独断専行権の証である
節を貰っています。すごい待遇。
蜀軍は陸遜に粉々に打ち砕かれ、
223年、劉備は諸葛亮に後事を託して
失意の中病死します。享年六十三。
曹丕はおそらく、劉備が死んだことで
蜀に対する警戒を殆ど解いてしまい
攻撃の矛先を呉一本に絞ります。
結局一度も勝てませんでしたが。
曹丕38歳、
脂の乗った年齢のように見えますが
あと寿命が2年しか残っていません。
ほとんど休むヒマがなく、
司馬懿に色んな官職を歴任させ
苦労を分かち合いたいと述べています。
やっぱ皇帝って大変なのね……
曹丕は寿命を占ってもらって
「40歳の時災難に遭われますが
それを過ぎれば80歳まで生きられます」
との結果に喜んだとされますが、
40歳の時の災難を乗り越えられずに
逝ってしまいました。




