6
「……人を好きになると言うことを咎めている訳じゃないわ。私が言ってるのは、私を欲しいと言うあなたの考えよ。それは決して許されることじゃないでしょ?それは分かるわよね?」
「なぜ?分からないよ」
真顔だった。
「なぜって、あなた達は兄弟だからよ。いえ、兄弟じゃなくても、私は既婚者なの。結婚している人とは付き合えないでしょ?それは分かるわよね?」
「姉さんが言ってることは分かるよ。けど、好きだという抑えられない気持ちも分かるだろ?」
「……ええ。でも、それを抑えるのが理性ある大人でしょ?」
「だったら、大人は皆、罪を犯さないと言うのか?理性だけで生きているなら、この世に犯罪者はいないはずだ」
(……!?)
何が何だか、柊子の頭はこんがらがっていた。
「あなたはまるで、犯罪者を擁護するような言い方ね。人が罪を犯すのは当然だとでも?」
「……俺はただ、自分の考えを言ったまでだ……」
「……あの時、もし、私が抵抗せず、あなたに抱かれていたら、卓也さんに対するあなたの気持ちはどうだった?」
「どうって?」
「申し訳ない気持ちとか、罪悪感とか、生じない?」
温くなったコーヒーを飲んだ。
「……兄さんの愛する人を得られたんだ、幸せに思ったさ」
「……はぁ?」
冗談とは思えない真顔の英征を視て、柊子は自分の常識とするものが根底から覆された思いだった。
結局、決着がつかないその押し問答に、柊子は“一度だけ”という約束で終止符を打った。――
懐妊に気付いたのは、庭の桃の花が花弁を散らす頃だった。そのことを知って、一番に喜んだのは綾子だった。初孫見たさからか、壊れ物に触れるかのように、柊子を大切に扱った。
――庭の水仙が咲く頃、卓也に手を添えられた柊子が、赤子を抱えて病院から帰ってきた。破顔一笑で出迎えた綾子は、産着の赤子を柊子から受け取ると、玩具で遊ぶ子供のように、夢中になってあやしていた。
綾子は、卓也と英征から一字ずつ取って、“卓征”と命名した。
――それは、桃の花が花弁を散らす頃だった。寝入り端にかかってきたその一本の電話は、不吉な音色をしていた。
「奥様っ!若お坊ちゃまがっ!」
病院からのその電話に、扶美が慌てふためいた。
「卓征も連れて行きまっし」
覚悟した綾子は一言そう言って、柊子を見た。
「はいっ」
柊子ははっきりと返事をすると、眠っている卓征を抱えた。泰然自若とした綾子の後につくと、卓也が運転する車に乗った。
(……英征さん……死なないで)
車窓を流れる街の灯が涙でぼやけた。その雫が卓征の頬に落ちた。
“急性白血病”それが、英征の病名だった。綾子に背中を押された柊子は、綾子と目を合わせると、卓征を抱いて病室に入った。ベッドで臥せている英征は、会わなかったこの一年余りで、目は窪み、小麦色だった肌は磁器のように冷たく白かった。
「……英征さん。あなたの子、卓征ですよ」
柊子は、細くなった英征の手に、ふっくらとした卓征の小さな手を触れさせた。英征の弱い視線が卓征に向いていた。
「……たくゆき……」
英征は、卓征の手を力なく握った。すると、卓征が嬉しそうに笑った。
「……あなたと私だけの秘密ですよ」
「……姉さん。産んでくれて……ありがとう」
英征が朧気な眼差しを向けていた。柊子は、溢れる涙を拭いもせず、咽んだ。英征の手を握った柊子は、甲にキスをした。
「……愛してるわ、あなたを」
「……姉……さん……俺も……愛して――」
その瞬間、英征の手から力が抜けた。
「英征さん、英征さん!」
柊子の慟哭と共にドアが開き、廊下にいた綾子と卓也が駆け付けた。柊子と卓征の泣き声が院内に轟いた。――
綾子は知っていた。卓征が英征の子供だと言うことを……。柊子には言わなかったが、体調が優れないという電話を寄越した英征に、綾子はしばしば会いに行っていた。
そして、そこで見たコーヒードリッパーで分かった。英征はコーヒーを飲まない。家族の中でコーヒーを飲むのは、綾子と柊子だけだった。卓征の命名も、そのことを知った上で、英征から一字取ったのだった。
しかし、そのことは綾子にとって大した問題ではなかった。卓也も英征も歴とした愛する我が子なのだから。その血の繋がった兄弟が、一人の人を好きになっても何ら不思議はない。
卓也もまた、そのことに気付いていた。それは単なる勘ではあるが、兄弟ならではの血の繋がりが、そのことを教えてくれたのかもしれない。弟の子供は我が子も同然だ……。そんな勘えだった。
英征は二十五歳という若さで逝ってしまった。だが、英征の遺したものは、“かけがえのない命”だった。その偉烈は家族の心の中に、深く、濃く、強く、そして、美しく刻まれていた。――
了