第一章 ep.5
あくびをしながら武田の後ろから教室に入ると、自分の席で腕組みして座っている姫と目が合ってしまった。昨日の今日で何か気まずい。思わず目をそらしてしまった。
何これ、何この妙な感じ。
俺、そんなに悪いこと…したっけ?
昨日、あの後鞄を取りに教室に戻ってきた姫は俺には目もくれず、すごいスピードで鞄をかっさらって去って行った。それを受けてさらにクラスメイトに憐れまれ、気まずくなった俺はすごすごと帰ったのだ。
俺の方が被害者じゃねぇか、おい。
しかし、俺とお姫様の席は隣同士。どうあがいても近付かなければならない。出来るものなら常に五メートルは距離を置いていたい関係だ。だがしかし、この席もマイナスなことだらけではない。明らかにマイナスの方が大きいが。
「おはよう、そーごくん」
「おう、おはよ」
そう、これ。これですよ。姫の一番の親友であり、心優しい春日さんは、友達が少なく大抵一人でいる姫のことを気遣ってそばにいることが多いのだ。つまり、俺は会話のおこぼれをもらえるチャンスがあるということだ。小さくてもいいんだよ、これが大事なんだから。
いししといつものように笑う春日さんに思わず頬が緩むと、目の端に姫が映った。明らかにかわいそうなものを見る目つきでこっちを見ている。そうだ、こいつにはもう俺の気持ちはばれてしまっていたんだった。俺、不憫すぎる。
「そーご、お前今日の英訳やってきた?俺、当たっちゃうから見して」
邪魔すんなや、武田のこのKY野郎。確かに英語はお前よりは出来るが、平均より大分低い俺の訳なんかを当てにしようとするな。学年順位一桁の野木原をあたれよ。
「ノギーはさっきまでいたはずなのにどっか行きやがったんだもん。だから、そーごに頼ろうと思ってさ」
トイレにでも行ったんだろ。もう少ししたら帰ってくるだろうから、いい子に待ってろ。
「あたしの、貸そうか?」
……え?
「ごめんね、会話聞いちゃって。でも、何かそーごくん貸したそうにないみたいだし、あたし英語は割と得意だから、多分そんなひどくないと思うし。というか、昨日ハーゲンダッツで妃芽と一緒にやったもんね」
そう言いながら春日さんが鞄をごそごそと漁っている。
え、ちょっと待って。え?マジで?って何お前もいいの?って借りる気まんまんなんだよ、おい。お前。俺が春日さん好きなの知ってるくせに何考えてんだよ、おいこら。いい人だからって甘えてんじゃねぇぞ、こら。俺が心の中で自分のことを完全に棚に上げて武田を罵っている間に、春日さんの動きが完全に止まった。
「ちょっと待って。あれ?ない。ないよ?妃芽」
この言葉に、妃芽が眉を顰める。あんま顰めてると、しわになるぞ。
「あたしに言わないでよ。結衣のノートの在りかなんてあたしに分かるわけないでしょ」
何この展開。
「……ノート、忘れちゃった」
てへっとでも効果音がつきそうな体で春日さんは笑うが、俺達の間には微妙な空気が流れていった。というか、春日さんを除く三人が軽く固まった。少し無音の時間が流れた後、
「……これ」
俺の目の前を一冊のノートが横切った。何となく予感がしながらもそれを目でたどっていくと、姫がうつむいてノートを差し出していた。長い髪に隠れてその表情までは分からなかったけれど、少しだけ手が震えていた。
「あ、貸してくれんの?」
さんきゅーと言いながら武田が受け取るのを左に感じながら、俺はずっと姫を見ていた。いや、変な意味じゃなくて、ものすごく意外だったからだ。思いがけず春日さんがノートを忘れてしまい、貸せなくなってしまったからとはいえ、あのお姫様が人様に何かすることが意外だったからだ。よくよく考えればノートを貸したぐらい全くと言っていいほどたいしたことではないし、こんなことを意外だと思ってしまうのはかなり失礼な話ではあるのだが、そのくらい当時の俺にとっては意外すぎる状況だったのさ。だって、このお姫様のことなんて何にも知らなかったわけだし。
だって、何だかんだで武田も戸惑ってる。
「いやぁ、桜井さんからノート借りれるとは思わなかったわ。ていうか、字きれいだね」
ノートをペラペラとめくりながら感嘆の様子の武田のこの言葉に、俯いたまま顔を上げない姫の肩がびくりとした。…もしかして緊張してんのか?大丈夫か?こいつ。思わず心配になってしまう。言ったらまたぶたれるだろうが。
「妃芽のノートなら間違いないよ。だって妃芽は超英語得意だもん」
ねー?と姫に向かって首をかしげる春日さんに思わず見とれてしまう。
英語、得意なんですか。それはそれは、うらやましいことで。
「あれ、何だか意外な組み合わせ?」
「何?あたしも混ぜてよ」
後ろから男女の声がし、振り向くと野木原とその彼女である香椎美姫がいた。香椎さんは確かD組の人で、俺達が野木原と知り合った時にはもう野木原の彼女だった。だから、俺達にとっては野木原の彼女としてしか認識されていないが、一部の男子生徒からはかなりの人気を集めているらしい。そして、どうやら名前に姫という漢字がついているせいか、学校内では桜井妃芽と反するもう一人の姫と呼ばれているらしい。性格もどうやら反しているようで、さばさばとしたいい子らしく、なぜ野木原と付き合っているのかが信じられないし理解したくもないと男友達が愚痴っていたのを聞いたことがある。ちなみに見た目も姫と言われてもおかしくないくらい美人な部類に入ると思う。ただ、俺個人的な意見だが、姫と言っても何となく守られているというよりは先陣切って戦っていそうだ、彼女の場合。もちろん悪い意味なんかではなく。
「朝っぱらから彼女といちゃつきながら独り身のところに来るな、このやろう。散れ。しっしっ」
武田の追い払おうとする手にも負けず、相変わらず野木原はにこにこと笑っている。
「美姫が辞書忘れたって言うから、貸すだけだよ」
野木原の言葉に合わせて、香椎さんが電子辞書を掲げる。
「何かめずらしいね、この組み合わせ。昨日席替えしたからかな」
まぁ、確かに席替えして姫と隣同士になってなかったからこんな状態になることもなかったかもな。…やっぱり姫が含まれてることがレアなのだろうか。
ふと俺の後ろに野木原の方を見た際にクラスメイトの何人かが目に入った。一部の奴らだが、こっちの様子を窺うように見ている。昨日の放課後教室に残ってた奴の姿もあったし、そいつらからしたら、今はちょっと面白い状況なのだろうか。確かに俺が逆の立場だったら、同じようにこっそり様子を窺っていたかもな。
ここで予鈴が鳴り、香椎さんはまたねと手を振りながら教室へ戻った。何となく会話がとぎれてしまったので、三人は席に戻ってしまった。その後ろ姿を俺はなんとなく恨めしげに眺める。
本鈴まであと五分ありますよ、皆さん。俺と姫の二人きりにしないでもらえるとありがたいんですけど。俺達の間に何か微妙な空気流れてることに気付いてもらったりなんかしてもらえるとすごく嬉しいんですけど。ありがたすぎて泣けちゃうくらいなんですけど。
とりあえず、横目で姫の様子を盗み見る。しかし、お姫様は俺なんぞには興味ないらしく、腕を組んだまままっすぐ黒板を見つめていた。その少しだけ赤い頬と、寂しそうな目の矛盾に疑問を持ちながら、何となく俺には聞くことが出来なかった。
傍から見て、どんなに恵まれているように見えても、幸せそうに見えても、本人の孤独や痛みなんて、本人しか分からないものなんだ。たとえそれがないものねだりだとしても、ただの贅沢にしか見えなくても、それは本人だけのもので、誰かが否定したり傷付けたりしていいものじゃないんだ。
この時の俺は、まだよく知らない姫や春日さんのことだけじゃなく、親友と呼べる存在であったはずの武田や野木原の痛みや悩みなんてものにも気付かず、自分の気持ちでさえも時には見失いそうになりながら、ただ流れていく日々に流されるがままに過ごしていた。
相変わらずお姫様は俺に冷たく、春日さんは時に笑いかけてくれるものの、もともとそんなに交流がある方じゃない、滅多に話す機会なんてものはなかった。そうして月は替わり、席替えの時を迎えた。もともとそんなに縁はないのだろう。俺は真ん中の一番後ろという何とも微妙な席を手に入れ、姫は廊下側の前から三列目、春日さんは窓側から二列目の後ろから二番目の席になっていた。微妙に距離が出来た俺達は話すこともなく、時折挨拶を交わす程度のただのクラスメイトになっていった。分かるとは思うが、お姫様は俺なんぞと目を合わせようとはしなかった。
これが当たり前なのさ。だって、もともとそんなに仲良く話していたわけではなかったんだし。せめて、授業中後ろから春日さんを見ることが出来るのが救いとでも言うべきなのだろうな。高望みなんぞはしないさ。だって、俺は平凡に静かに生きていこうと決めているのだからな。