08 異世界から見た異世界から異世界へ来た、どこでも奇人
既に猿の魔族は篤志と睨み合っている。静香は無事二階へ上がれたようだ。
日本刀が通用する相手なのかも分からない――雅人は手にした金属バットを拳で軽く叩いてから、背を向ける格闘家に問いかける。
「バット、使いますか?」
「俺は喧嘩屋じゃねえ。お前が使え」
体長一メートルに満たない大きさの相手だが、何をしてくるのかは不明だ。
雅人は僅かに震える拳に力を込め、篤志に告げる。
「俺が前に出ます。陣内さんは相手に隙ができたところを狙ってください」
「バカ野郎! コイツぐらい俺一人でなんとかし――」
言い終える前に猿が飛びかかってくるが、篤志はそれを躱す。
相手は獣だ。動きはそれなりに素早い。それでも恐れるほどの相手ではないと判断したのか、篤志は猿に人差し指を向け、チョイチョイと動かし挑発する。
容易く挑発に乗った猿は叫び声を上げながら飛びかかり、左の横っ腹に篤志の回し蹴りを喰らって吹っ飛ばされたが、地面に着地して体勢を立て直す。
ダメージを受けていない猿を見て、格闘家に失望の眼差しを向ける雅人。
「陣内さん……」
「うるせえっ!! コイツ、やっぱ普通じゃねえ。頑丈にできてやがるぞ」
「手伝います!」
「もう一回おちょくってやるから、俺が身を屈めたタイミングでぶちかませ!」
言うと同時に、四つん這いになって様子を窺っていた猿が飛びかかり、それを躱した篤志が再び同じ動作で挑発しているあいだに、雅人は後方でスタンバイする。
大声で叫びながら猿が跳躍し、篤志が身を屈めてできた空間にバットが振り抜かれ、鈍い打撃音が響く――
さすがに顔面は弱いようで、猿は顔を押さえて地面を転げ回っている。
「今だ、やっちまえ!!」
篤志がそう叫んでも返事がない。振り返ると、雅人はへこんだバットを握り締めたまま顔面蒼白になり、小刻みに震えていた。
ごく普通の日常生活を過ごしてきた若者に、金属バットで生き物を殴る経験などあるわけがないのだ。
篤志は無言でバットを雅人の手から剥がし、転げ回っている猿にとどめの一撃を加えた。
そこに頭上から静香の声が飛ぶ。
「雅人君、左だ!!」
篤志が身体を回すと、雅人に向かって猿が飛びかかろうとしている。
もう一体現れたのだ。
瞬時に反応した篤志は、上げたまま硬直している雅人の腕と、そこに喰らい付くために開かれた猿の口との空間に、金属バットを突き出した。
ギリギリのところで猿はバットに齧り付いたものの、体勢を崩した篤志の手からバットが離れてしまう。
牙の折れた猿はその得物を手にすると、血染めの口元を歪めた。
「コイツ……笑ってやがる」
「ごめんなさい、陣内さん! 俺――」
「いいから距離を取れ、モロに喰らうと骨折するぞ!!」
すぐさま猿はバットを振り翳して襲い掛かる。棒切れで人を襲うことにも慣れているのか、鋭いスイングで風切り音を鳴らす。
再度ニタア……と嫌な笑みを浮かべた猿が、手にしたバットを振り上げようとした瞬間――
その背中を静香が左から右に斬り上げると、そのまま一回転して猿の身体を蹴り飛ばした。
吹っ飛んだ猿から、大量の血飛沫が上がる。
斬殺した当人は雅人のように怯える様子もなく、平然と言い放つ。
「イメージ通りにできたぞ、うん」
「お前……この世界のほうが向いてるんじゃね?」
「俺もそう思いました……」
静香は気にすることなく素早く周囲を見渡し、乃愛の部屋をノックする。
「乃愛どのーっ! 拙者が来たからにはもう安心で御座るよー!!」
ズッコケる余裕などない雅人と篤志は、周囲の警戒を引き継いだ。
やがてドアが開け放たれ、飛び出した乃愛が静香にしがみ付く。
泣いていたのだろう――静香から離れたときには、目と鼻が赤くなっていた。
音から逃れるために座布団でも被っていたのか、髪もぐしゃぐしゃだ。
トランペットの件を話すと乃愛が部屋に戻り、怒りをぶつけるような大音量で吹き鳴らす。
住人達が窓から聖隆を見ると、遠くで巨大アルマジロのような魔獣、《ドエディクルス》と戦いつつ、こちらを見ずに「ごめん」とでも言いたげに片手を上げた。
数体逃したことには気付いていたのかもしれない。それでも手一杯なほどの数と戦っていたのだ。
「あんなのと一人で戦ってるんだ……」
「乃愛どの……拙者があと寸刻ばかり早く参っておれば、粗相など……」
「してないよっ!?」
「俺もちょっとヤバかったよ……」
「『も』って何!? してないからっ!!」
「マー坊、お前さんはよくやったよ。俺のがよっぽど不甲斐ない」
「いえ、陣内さんがいなかったら、俺の腕はバナナの代わりになってました」
「拙者は? 拙者の武勇は如何で御座ったか?」
「美邑さんは自分の作品の中に住んでてください」
「それは気狂いの類で御座ろう?」
「だからそうだって言われてんだろうが!!」
やがて視認できる範囲に動く異形の姿はなくなり、静寂が訪れた――
外から「まだ出ないでくださーい!」と大きな声が響き、アパート住人が各々の窓から外を見ると、巨大生物の死体が宙に浮き、その下を聖隆が歩いていた。
そうやって死体を一箇所に集め、こちらに向かって歩く聖隆の背後で巨大な火柱が上がる――死体を焼却しているのだ。
「すみませんでした。みなさんを危険な目に遭わせてしまって」
アパート前に戻ってきた聖隆を出迎えたのは、元々大家の部屋に集まっていた面子と乃愛だ。
「アンタは悪くないよ。部屋から出るなって言ってんのに飛び出すバカがいただけだからね」
「それでも怖い思いをさせてしまったのは事実ですから。本当にすみません」
紙で刀を拭っていた馬鹿の一人が、声を弾ませて言う。
「罰として、今夜は寝ずに私と語り合おうではないか!」
「それは厳罰すぎるからやめてあげてください美邑さん」
魔族への恐怖に慄くどころか返り討ちにしただけでなく、これほどの異常事態のあとにもかかわらず、長閑に談笑している不思議な集団に、自分の中の常識が揺らいでいるのか、唖然とする聖隆に向けて、あらためて大家が頭を下げる。
「店子を守ってくれてありがとう。それと篤志と静香も。ありがとうね」
「俺は!?」
「マー坊の勇姿は写真に撮っときゃよかったねえ」
「バット握り締めたままガクブルってな?」
「そんなっ!? 俺だって頑張ったのに!!」
「いや、頼んだのは私だ。褒美として今夜は寝ずに話を――」
「それは罰ゲームです!!」
「まーくん、サイン貰ってあげようかー?」
「上からだし上からだし!!」
二階の共用廊下から手を振る紗苗も笑顔だ。
「とにかく、部屋に戻ってお茶でも飲みな」
「湯はどうするので御座るかな?」
「水とカセットコンロがあるよ。まだその喋り方続けるのかい……」
呆れながらドアを開けた大家に続いて、四人と聖隆が部屋へ入っていく。
§
「生まれる世界を間違えた人物が混じっていたみたいですね……」
大家の部屋でお茶を飲みながらアパート住人の戦いについて聞いた聖隆が、驚きの表情を浮かべながら発した言葉に、住人達は深く頷いた。
「なんで美邑さんが頷いてるんですかっ!?」
「薄々――といってもエロの話じゃないぞ? 薄々そんな気はしていたんだよ」
「アンタのは持病じゃないかねえ……頭の」
また全員が頷く。静香も。
それでも聖隆は渋面を作り「二度としないでもらいたい」と念を押す。
魔族との戦闘で殺されなくても、怪我しただけで死に至る可能性はあるのだ。
一度危機を乗り越えたからといって、二度、三度と続くものではない――
圧倒的な力を見せた聖隆が怒るでもなく穏やかに諌めると、住人達の興奮状態も落ち着きを見せ始めた。
すると、聖隆がおもむろに立ち上がって呟く。
「来たかな?」