07 ランクB冒険者、矢上聖隆
アパートのベランダ側、その窓の向こう――
凹凸の少ない荒野で、目を疑うような事態が発生する。
『魔族』と呼ばれる獣の大群へ向かって、聖隆が異常な跳躍を見せたのだ。
とん、と地面を蹴ったかと思えば、あっという間に百メートル以上跳躍し、地面を滑るように着地するのではなく、小さな水たまりでも飛び越えたように軽やかに着地した。
「なんだありゃあ……今まで日本語で話してた同じ人間とは思えねえぞ……」
「魔術も使っているとは思うが、身体能力も地球人とは違うと考えるべきだな」
「魔族っていっても、せいぜい数匹の群れだと勝手に思ってましたよ」
「地球の伝承における『ワイルドハント』はヨーロッパ版『百鬼夜行』といったところだが、見たところ亡霊の集団という感じではないし、先程の聖隆氏のニュアンスでは、『統率された群れ』を表現する言葉のようだな」
「ここを狙って来てるってことですか?」
「おそらく。だが、重要なのは『脅威度』という表現だよ雅人君!!」
「脅威度が高ければ、群れじゃなくても危険ってことですよね……」
「聖隆氏は『相手の脅威度が低い』と言ったからな。心配ないだろう」
「あれ見ても、平然としてやがったよな……」
「あの人は一人でここに残ったんだ。アタシらは信用するしかないよ」
大家の言葉に三人も頷き、窓の外へ視線を移す。
大挙して押し寄せる魔族。まるで映画のワンシーンのような光景を、雅人は口を開けたまま眺めていた。
そして視線の先では、さらに現実離れした光景が展開する。
正面の地面から突如無数の槍のようなものが突き立ち、何十体もの魔族が貫かれると、次に向かって左側の集団が炎に包まれた。
さらに向かって右側へ回り込んだ魔族の上に巨大な氷塊が落下し、轟音のあと土煙が舞い上がる。
それほどの攻撃を受けながらも、残った魔族は足を止めることなくこちらへ突進を続ける――
「仲間がやられても止まる気配がねえぞ、あいつら……」
「お……おお、おっ……!!」
「そんなに嬉しいんですか、美邑さん……」
「アレを止められなかったら、アタシ達は皆殺しってことかねえ」
そんな会話をする眼前では強風によって土煙が吹き飛ばされ、こちらに向かってくる魔族の姿もはっきりと視認出来る距離になった。
「見ろ! 地球の古代生物そっくりの容姿をした魔獣までいるぞ!!」
興奮する静香以外は、遠目には異世界オリジナルの魔獣との違いが分からず首を傾げているが、地球では想像図しか存在しない獣に酷似した個体も混じっており、五メートルほどの巨大な魔獣もいる。
普通の人間ならば、剣や槍を手にしたところで一人で立ち向かえるようなサイズではないが、聖隆が剣を一振りするだけで真っ二つに分断された。
「凄い!! 俺なんか一番小さいのでも勝てそうにないなあ」
「いや雅人君、そこは知恵と勇気で立ち向かってみよう」
「戦わせるつもりですか!?」
「だが――大勢は決したようだぞ?」
地鳴りも収まり、既に聖隆に狙いを定めている魔獣は両手で足りるほどの数になっていた。
そんな光景に、気を緩めかけた住人達のいる建物を目掛けて、猿のような見た目の魔獣が猛突進してくる。
「おい! 討ち漏らしたやつがこっちに来るぞ! この部屋だ!!」
「全員窓から離れなっ!!」
目視できた中ではもっとも小型の個体だが、相手は魔族だ。
全員即座に窓から離れると、猿はベランダの手すりを乗り越えて突っ込んできたものの、窓に激突して跳ね返され、ベランダの床で蹲って悶絶している。
「大家さんの部屋は、いつの間に大統領専用室になったのかな?」
「そんな金はないよ! あってもするかバカ!!」
「さっき聖隆さんが『強化した』って言ってましたよね?」
「マジか……ガラスに罅すら入ってねえぞ……」
だが、相手は死んだわけではない。
痛みが引いたのか、ゆっくり立ち上がるとベランダから飛び出し移動していく。
他の部屋の女性達は声を押し殺しているのか、悲鳴は止んでいる。
「表に回るつもりですかね?」
「表のほうが安全なんじゃねえか? あっち側の窓には柵もあるし」
「まさか……ドアの開け方を知ってるのか!?」
静香の言葉に息を呑む一同――相手は異世界で『魔族』と呼ばれる生物だ。そんな知恵などあるはずがないと言える者は、この場にはいない。
いくら強化していようと、ドアを開けてしまえば無意味だ。
窓から遠方に見える聖隆は別の魔獣と交戦中で、こちらの状況を見ていない。
「あの野郎! 戻ってきたらぶん殴ってやる!!」
「陣内氏の拳が無事だといいが……その前に、あの猿に気付いてもらわなければ」
「窓は開けられないし、呼びになんて行けませんからね……」
「デシベルだのは知らねえが、トランペットなら聞こえるんじゃねえか?」
「乃愛がそこに気付いてくれるといいんだけどねえ……」
一瞬の沈黙。
その直後、ドアを叩きドアノブを乱暴にガチャガチャ回す音が聞こえた。
この部屋ではない――隣の乃愛の部屋だ。
乃愛の部屋からはトランペットの音どころか悲鳴すら聞こえてこない。あまりの恐怖に硬直しているのかもしれない。
猿の魔獣は力がそれほど強くないのか、いきなりドアノブが破壊されることはなさそうだが、執念深くガチャガチャやっている音は、聞いているだけでもストレスになる。
「陣内さん、鍵はそう簡単に壊れませんよね……チェーンロックもあるし」
「あのサイズだ。そこまでの力はねえだろうけどよ、部屋ん中はパニック状態だろうぜ」
「女の子一人だし……どうにかこちらに気を引けませんか?」
「アンタら部屋を出ちゃダメだよ!! 一匹だけとは限らないからね!」
「だけどよ、あんなのが続けば万が一ってこともあるんじゃねえか?」
再びの沈黙――そのあいだにも、隣から聞こえる音は激しさを増す。
すると雅人が立ち上がり、動揺を抑制した声で言う。
「まだ……こっちには注意が向いてません。何かできることがあるはずです」
「だな。音を聞く限り、今はアイツ一匹しかいねえだろ。やってみるか!」
「二人で猿を引き付けておいてもらえるかな? そのあいだに私が二階の部屋まで駆け上がって刀を取ってくる」
雅人と篤志が声の主を見ると、何時の間にか静香は玄関側に立ち、ドアの覗き穴から外の様子を窺っていた。
「ほんとに真剣持ってんのかよ!?」
「許可も取ってある。こう見えて幼少期から道場に通っているんだよ!」
「美邑さんに幼少期なんてあったんですか?」
「失敬だな雅人君は!!」
そんなやり取りを黙って聞いていた大家は、目を閉じて嘆息する。
「出るなって言ってるだろうが……隣だって開けられなきゃ問題ないんだ」
「だけどお孫さんですよ、心配じゃないんですか?」
「マー坊……アンタ達が気にかけてくれるのは嬉しいが、アタシにとっちゃ店子の全員が子供であり孫みたいなものなんだよ」
まだ隣から聞こえる音は止まらない。
さらに猿のような魔族が突如大声で叫び始めた。聖隆も気付く可能性はあるが、問題は叫び方だ。顔を回しながら叫んでいるように声量が増減する。
「仲間を呼んでいるのか!? だとすれば、こちらも外に出る機会を失ってしまう」
「仲間が来たら部屋に戻れなくなるだろう。とにかくもう少し――」
大家が言い終える前に、静香が外へ飛び出してしまう。
続いて篤志も飛び出したので雅人も後に付いて出ようとすると、「待ちな!!」と大家が引き止め、雅人に金属バットを手渡す。
「半グレの使う短いやつだ。軽くて振り回しやすい」
「なんでそんなものを――」
「防犯対策だ。乃愛を頼むよ」
言われて雅人は頷くと、「鍵を」と言葉を残して二人の後を追った。