05 代償を失うのは努力家。天才は与えるばかりって隣の猫が
水の次は食料だ。ある懸念について大家が問う。
「現時点ではまだ食料を運んできてないみたいだが、ここにアタシらだけを残して取りに戻るってことかい?」
「ご心配なく。僕はこのまま残ります。元々は祐君を迎えに来ただけなので、何も用意していなかったんですよ。必要な物資は他の冒険者が届けてくれます」
「それじゃその物資とやらが届くまでにやっとくことは、各自部屋に残ってる食材の確認と風呂場の片付けぐらいでいいのかい?」
「そうしていただけると以降の流れも円滑に進みますね。ただ、その前にひとつ。誰か大きな音が出るものを持っていませんか?」
「何に使うんです? 獣避けとか?」
「残念ながら、そっちにはあまり効果がないんだよ雅人君。全員に聞こえる合図用に、あると便利だからね」
「それなら――部屋に何かあると思う」
存在感の薄いヒモ男の小野寺賢也が珍しく口を開き、聖隆に伴われて出ていったため、ようやく静香の口が開放された。乃愛は舐められた手をこっそり雅人の服で拭っている。
「やはり年齢的に、肩に乗せるラジカセだろうか?」
「そんなのウチの部屋にないわよー。つか『やはり』って何よ!? 賢ちゃんに変なキャラ付け盛らないでよねー!」
部屋から戻った賢也が手にしていたのは、ラジカセではなくトランペットだ。
それを見て雅人は、ごく当たり前の質問を投げかける。
「吹けるんですか?」
「いや……昔、知り合いに金を貸したときに預かっただけだ」
「誰も音を出せなかったら意味ないよね」
「乃愛、アンタ吹けるんじゃないのかい? 吹奏楽やってただろ」
大家の言葉を聞いた賢也からトランペットを渡された乃愛は、困惑の表情でその金管楽器を見つめながら言う。
「私はオーボエ担当だし。中学時代にちょっとやってただけだし」
「凄く難しい管楽器じゃないか!?」
「そうなんですか? 美邑さん」
「『まともに曲が吹けるまでに三年』らしいぞ雅人君。ネットで見たんだ」
「ネットソースですか……だけど学生でも演奏してますよね?」
「篳篥とかオーボエは縦笛の延長線上だし別に……笛型だとスモールパイプスってやつはちょっと特殊だったけど」
「篳篥も吹けるのか!? スモールパイプスはバグパイプの系統だろう? 鞴で演奏するタイプなら、イーリアン・パイプスは見たことがあるぞ」
「それのさらに小さいやつで、ノーサンブリアン・スモールパイプスっていうんだけど、それは寄贈品だし、オーボエもリードは買ったり作るけど本体は備品だし、買ってまで続ける気はしないよ」
「ノーサンバーランドの楽器だな。イングランド北部、スコットランドとの境界で城が多い場所だ。何故城が多いかと言うと――」
「薀蓄はいいとして、楽器ってやっぱり高いものなのか?」
オタクに薀蓄を語らせると止まらなくなる。雅人は過去の経験から学んだ。
貧乏人の疑問に、乃愛は説得力があるのかないのか分からない人物に問う。
「どの楽器でもちゃんとした物は数十万とかするよね? 小野寺さん」
「そうだな。入門用の廉価品もあるが、長く続けるなら結局高価なものを買うことになるだろう」
「うわあ……俺には縁のない存在だ」
「『ガチは無理』ってなることもあるから入門用は安いんだよ。ママチャリ乗れるからって高いロードレーサー買わないでしょ?」
「そりゃそうだけど……乃愛の例えもどうなんだろう」
「何故やめてしまうんだ……まったく、これだから困るんだよ天才ってのは」
静香の言葉に周囲の大人達もうんうんと首肯する中、聖隆は困惑していた。
「あの……結局、誰も吹けないんでしょうか?」
「その前に、音で集まる魔物はいないのだろうか?」
「音の有無に関係なく、人間だけを狙ってくるので問題ないんですよ」
「つまり、音を囮のように使うこともできないわけだな」
「そうです。右は音だけ、左は無音でも人間がいるなら、確実に左に行きます」
平然と答える聖隆に、一同は戦慄した――
会話に出てくる『魔物』とやらは、人間を感知する何らかの能力があるのだ。
そんな様子を見ても、聖隆は表情を変えずに続ける。
「ああ、そうそう。建物も少し強化してあります」
「何をどうやって!?」
「魔法だね?」
「この世界では『魔術』と言います。魔術が何かについてはまた後程。建物の外に面する部分、壁や窓、ドアなどの強度と弾性を高めてあります」
「ふわあああむぐっ――ぅうん!」
「うるさいです静香さん!!」
熟練度が増す乃愛と新しい扉が開かれつつある静香以外の住人が、立ち上がって各々窓を叩いてみたりしている中、部屋の中央には身売りに出された哀れなトランペットが横たわっている。
静香の口から手を離した乃愛が、自身の扱いの不遇に光沢を曇らせた金管楽器を手に取り、ピストンの具合を見てからティッシュでマウスピースを拭い、ゆっくり口を付けると――――
「うるせえなっ!! って、音出てるじゃねえか!?」
「ウチの天才にうるせえとはなんだい! この役立たずがっ!!」
「なんだとバ――」
「アンブシュアだけでなく、肺活量や横隔膜の使い方、そして舌技も天性のものなのだろう」
「タンギング!! 知ってて言ってるでしょ!」
自身の言葉を遮った二人が発した意味不明な単語に、不満顔の篤志が呟く。
「暗部だのタンだの言われても分かんねえよ」
「先に言います今重要じゃない解説はあとでいいです美邑さん!」
「む。そうか……そうだな雅人君。どうかな乃愛ちゃん、メロディーも吹けそうなコンディションだろうか?」
いくつかの調子外れな音を吹いている乃愛にそう尋ねると、やがてゆっくり一音ずつドレミの音階を奏で始め、続けてフランス国家『ラ・マルセイエーズ』の冒頭部分を吹いてみせた。
全員が驚嘆の表情を浮かべる中、雅人が知ったような台詞を吐く。
「軽く音を探っただけで音階を把握できるんだな」
「吹くところは近くで見てたからね」
「なんと、乃愛ちゃんは瞳術の使い手だったのか!」
「ほんとに漫画みたいな天才っているんだねー。あとでサイン頂戴」
「紗苗さんはサイン収集家なんですか?」
「静香ちゃんのもあるよー。まーくんのはいらない」
「お、俺だって! ――――何もないなあ……」
しょげる雅人の肩をぽんぽんっと叩く聖隆。
「とにかく、これで全員を集合させる方法ができましたね」
「一人で部屋を出てもいいのかい?」
「その際は僕や他の冒険者が先に出て監視しますから、大丈夫ですよ」
「メンテナンスしないと、ちゃんとした演奏は無理だと思うけど……」
「充分だよ。どうだい、アタシの孫は天才なんだよ!!」
「その天才はニートを目指して――」
小声でそう呟きながら視線を移した雅人は、まんざらでもなさそうな表情でトランペットを見つめる乃愛の様子に、続く言葉を呑み込んだ。
その後、音による分かりやすい合図が決められた。
一度吹けば『室内待機』、二度なら『全員集合』、三度で『緊急。即時退室』となる。
「でも、それだと乃愛っち練習できないねー」
「ちゃんと演奏するつもりはないし。メンテ方法も分かんないから」
「いや、マニュアルも付いている。時々やっておいた」
「意外とマメなんですね、小野寺さんって」
「仕事がないと時間を持て余すんだよ雅人君!! それより、外で練習できれば問題ないと思うのだが?」
静香の言葉に住人達は『そういえば……』という顔をする。
「確かに。練習のときはみんなから見える場所にいればいいんですよね」
「別にやるって言ってないんだけど……」
そう言いながらも、少し嬉しそうな乃愛。
賢也だけは、静香の放ったエア包丁が刺さったまま項垂れていた。