最終話 エアコンが付いた日。エアコンが付いた日。(二台分)
雅人は転移前と異なる二〇二号室を飛び出し、祐の部屋へ駆け下りた。
何をさておいても優先すべきは、『それ』が事実であったかどうかの確認だ。
やがて救急車とパトカーのサイレンが鳴り響き、大家が応対に追われ、いろんな意味で長かった真夏の一夜が、慌ただしく明けていく――――
「悲しいんだけど悲しくないなんて、こんな感情、生まれて始めてだ……」
「まあ、『生まれて始めて』なんざ、もう散々経験したけどな」
「なんだなんだ、魔族のいない世界でのびのびと暮らせるというのに、辛気臭いぞ非モテメンズ!!」
「少しは疲れてください美邑さん……あと、『魔族』とか大声で言わないで」
「雅人君、バイトは?」
「ああっ!?」
乃愛の声に、服も着替えず雅人は走り去っていく。帰りはまた夕方だ。
そうして『いつも』の続きが始まった。
「あたしも寝ないと今晩仕事よー。変なこと話しちゃいそうで不安なんだけどー」
「『という夢を見た』で、万事解決するぞ!!」
「そうかなー? だといいけどー」
「とにかく寝られる者は寝ときな!! 時差ボケには寝るのが一番だよ!」
「時差なんて可愛いもんじゃねえけどな……」
「『世界差』だよね……」
「乃愛は学校あるだろ!! シャワー浴びときな!」
「夏休みだよ……」
「私は原稿の続きだ。明日締め切りだからな!!」
音痴漫画家はアナログ画材を使用している。日本の画材で日本人が描いた原稿であれば、締切に追われる人々が羨む『あと一週間』を得られたはずなのに――
『変な旗を量産してる時間でやっとけよ』と呆れる住人達を背に、独特な鼻歌を口ずさみながら、軽やかな足取りで部屋に戻っていく。
そして大家は、今後しばらく関係各所への応対に追われることになるが、必殺技『年寄りに無理させないでおくれ!!』があるのでマイペースにこなせるだろう。
それから数日後――祐の母親が警官に伴われて薄雪荘を訪れた。
心優しい息子は母親が帰ってくると信じていたのか、諦めて悲しみに暮れていたのか――今となっては知る術がない。だが住人達にとっては、笑顔で元気に駆けていった祐こそが現実の姿なのだ。
そして愚かな母親も、何度も顔を合わせ、バーベキューなどにも楽しそうに参加していた元住人だ。
憔悴しきった表情の母親を、無言で見つめることしかできない住人達。
ただ、大家だけは声を張って言う。
「アンタはバカ親だが、息子は立派だった。そこまで育てたのもアンタだ。それだけは覚えときな!!」
泣き崩れた母親は、車に乗せられアパートから遠ざかっていった――
「『まあ、死んでないんですけどね』って言いそうで危なかったよ……」
「よく堪えたぞ雅人君! ナノレベルで成長したな!!」
「『何も変わってない』って言わないと。相手は雅人君なんだよ?」
乃愛の言葉にうんうんと頷く住人達と抗議する雅人。それを見て嘆息する大家。 あれほど異常な出来事のあとでも、人はそう簡単には変わらない。
さらに数日後――
エアコン交換が来るので雅人はバイトを早上がりさせてもらい、小雨のパラつく天気の中、二台とも設置が完了した。
「やっと地獄から開放されるぞ!! ――今日は寒いけど」
「雨だし。せっかく涼めるようになっても、じきに夏休み終わっちゃうね」
「休日はバイト入れるから、どっちかって言うと帰宅時にないのがつらい」
「『はー疲れた』って落ち着けなくて、もう一段階疲れる感じ?」
「そうそう、二段階。快適に過ごしたいというより、そこが地獄なんだよ」
「だけど、忘れなくていいよね。『エアコンが壊れた日だったな』って」
「そうだけど、嫌な思い出し方だなそれ」
雅人の部屋に乃愛がいる。
恋人としてではなく、エアコン設置の確認と写真を撮るために来たのだ。
一方は引き篭もりがちで、一方はバイトに明け暮れる日々なのに、互いの部屋に行こうとしない二人の関係は、まったく進展しない。
そこにインターホンの音が鳴り、二人揃って跳び上がりそうになる。
ドアの外には夜行性の来客が立っていた。
「やっほー。エアコン付いたんだー! 結構早かったねー」
「美邑さんが『知り合いの業者に頼もう』って。大家さんは『勝手なことするな』って怒ってましたけど、盆休に入るとややこしいから助かりました」
「なるほどー。で、二人はエロいことしてたのー? 壁にコップ当ててもなんにも聞こえないから、判定しに来たのよー」
「判定ってなんですか!?」
「というのは冗談で、賢ちゃんが『ギターいらないか?』ってさ」
「なんで本人が来ないんです?」
「就活ってやつよー。昔の知り合いとかいろいろ当たってみてるんだって」
「勿体ないなあ。俺、小野寺さんの歌声好きなのに……」
「そこはもうアレよー。『お前のためだ』なんて言われちゃったらもうねー」
頬に手を当ててくねくねする紗苗に、半眼になった乃愛が悶殺の右手を構える。
「惚気に来たの?」
「乃愛っち怖いー。邪魔してごめんって! 乃愛っちにもトランペットあげるって言ってるけど、どうするー?」
「いらない。元々他人が買ったものでしょ? なんか怨念が憑いてそうだし」
「怖いこと言わないでよっ!? 部屋に置いときたくないんだけどー」
「俺は怨念はどうでもいいけどギターは受け取れません。それより、毎年一回だけでもいいから、あの曲を聞かせてほしいですね」
「なるほど、それはいいねー。そんじゃトランペットだけ置かせてもらうねー」
「なんで!?」
置いていかれた。
後日、賢也がアパート内の回覧板で、『盆休が近い時期なので、毎年全員が休みをとれる日に集まろう』と提案し、記念日パーティーの恒例化が決定した。
そして季節は秋になり、篤志と賢也はそれぞれ定職を見付けて働き始めた。
篤志は警備会社に、賢也はテレビ局の仕事などを請け負う映像編集会社に勤めることになったが、篤志にはまだ婚活との厳しい戦いが待ち受けている。
乃愛は静香から型落ちのPC一式を譲り受けてDTMを始めたが、元々音楽理論の基礎は身に付いているため、その非凡な才能が開花するために必要なものがあるとすれば、僅かな時間と機材だけだろう。
二〇〇三年――時代はまだ、動画サイト全盛時代の入り口である。
雅人も夏休み中に、『大学進学』という一大決心をした。
盆休中の家族会議で『バイトを辞めて勉強に集中したい』と伝え、両親と二人の兄は「金のことは心配するな」と、賛成してくれたようだ。
それでも、いきなりシフトを空けるわけには行かないので、代わりが決まるまで徐々に減らし、すべてのバイトを辞めたころには冬になっていた。
そして十二月二十四日――
のちに『クリスマスイブの修羅場』と呼ばれる事件が発生する。
午後五時を過ぎ、辺りも暗い時間に、雅人の部屋に五人の女性が訪れた。
年齢は様々だが全員バイト先の知り合いのようで、中には同じ職場の同僚同士で仲良くやってきたコンビまでいる。それぞれ口にするのは『お別れ会をする暇もなかった。挨拶を兼ねて直接訪ねてみることにした』といった内容で、何かを期待しているというより、『もう会えないのかな?』ぐらいの感覚かもしれない。
大事なクリスマスの日に、何が彼女達をそこまで突き動かしたのか?
そこで現れたのが、煙管を片手に真紅のイブニングドレスと黒い毛皮のショールを纏った謎の女――美邑静香である。
「お嬢ちゃん達。ウチの雅人君と話がしたいなら、このアタシを通してもらわないと困るんだけどねえ」
「どういう設定なんですか!?」
現在静香は一〇四号室へ転居するために荷物の移動中で、まだ自分の部屋である二〇三号室を使用してのクリスマスパーティー開催を、独断で決定する。
わけが分からないまま部屋の飾りつけを済ませ、どこから運び込まれたのか大きなテーブルの上に皿とグラスを並べる女性達。
テーブルに置かれたのは女性たちが持参した食料だけでなく、予約なしでは買えない有名店の高価なケーキが数種。そこへ配達される発泡飲料とピザ。
忙しい日に仮病で早上がりして、ちゃっかり混ざっている仕事着姿の紗苗。
呆然と準備を眺めていた雅人の背後から、聞き慣れた声がする。
「誰を誘って何をしてるのかな?」
乃愛である――
雅人は大学に進学するために頑張っていたのだ。
乃愛もそれを知っていたからこそ、「遊びに行きたい」とも言わず「クリスマスはどうするの?」とも訊かず見守っていたところに、このマッドパーティーだ。
そして仮面舞踏会用のきらびやかな半面マスクを着けた、頭のおかしい主催者が高らかに告げる。
「ではみなさん、今からわたくしの目の前で殺し合いをしてもらいますわよ!!」
「キャラ変わってるし!! 大家さん! こんなときこそ大家さんは!?」
「自治会のクリスマスパーティーに行ってるよ」
「不在!?」
「ってゆーか、なんの集まりなのこれー?」
「なんで知らずに帰ってきたんですか紗苗さん!?」
「それでは今から殺し合いを始めるみなさんに、なんのために来たのか訊いていきましょう!!」
何一つ着地させないまま、状況が先に進んでいく。
静香に本物のマイクを向けられた女性が一人ずつ、試合への意気込みを語る。
「今日のために追い込んできました。負ける気はしません!」
「ずっと誘ってたのにいなくなって。こうなったら既成事実を……フフフ……」
「なんか面白い子だなーって思ってたんだけど、周りも滅茶苦茶で面白いね!」
「私はちょっといいなって思っただけで……マリちゃんに連れてこられて……死にたくないよう……」
「家庭の愚痴を文句も言わずに聞いていただいて……夫を捨てても構いません!」
確かにモテてはいるようだが、どうなんだこれ? という出場選手達である。
「そしてディフェンディングチャンピオンからのひと言です!!」
「バカ騒ぎをやめないと、このケーキに付いてないノロウイルスを殺すからね」
そう言った乃愛が手袋をした手で持つのは、高級ケーキの皿と塩素系の洗剤。
紗苗に三角帽子を乗せられたせいで、楽しんでいるのか怒っているのかよく分からない不思議な光景だ。
「おっとここで必殺の、『混ぜるな危険』が出たーっ!!」
「この組み合わせだと意味が違うでしょ!?」
「乃愛っちー。食べ物で遊んだらクレーム電話が鳴りっぱだからねー?」
「これが服にかかったらどうなると思う?」
全員が『ひっ!?』と小さな悲鳴を上げて後退る。
「おっとここでチャンピオン、誰もがカビ取り掃除で経験する、『ちょっと跳ねただけなのに!?』攻撃かーっ!!」
「分母がよく分からないやつ!?」
乃愛はケーキを置いてつかつかと静香に歩み寄り、悲鳴が飛び交う中、無慈悲な攻撃を加える――真紅のドレスに、スポイトで塩素系洗剤を垂らしたのだ。
まさかのガチ攻撃に、全員が絶句する。
「フフフ……なかなかやるな。このドレスがディスカウントショップのパーティーグッズと見抜いたのは、チャンピオンが二人目だ!」
一人目は既に飽きつつあるのか、持参の高級シャンパンの栓を抜いた。
その音で、ショックや恐怖に激弱な乃愛の手から飛んだ塩素系洗剤が、貧乏人のズボンに『ああもうこれ駄目だな』という染みを作った――
「さあ、このダメージデニム。五百円からでオークションスタートです!」
「早く脱いで」
「おっとチャンピオンが実力行使に出た!! 寝技に持ち込むのかーっ!?」
一万三千円で落札――――驚くような高値は付かなかった。
そして帰宅した大家の怒号によって、一〇四号室に閉じ込められた静香のいない静かな立食パーティーとなり、女性達の帰途は、お高いケーキととんでもない値段のシャンパンの話題一色で、辱めを受けた男のことなど忘れ去られていた。
後日、静香は生々しい落札金を返却。雅人のズボンは「金の斧です」などと意味不明のことを言いながら、高級ブランド品を股下丈がピッタリな状態で渡し、逆に気味悪がられた。
その事件以降、二〇三号室はご近所で『乱交部屋』という噂が広まってしまい、大家は風評被害の賠償を静香に要求する。
「次の入居者が決まるまで、あの部屋の家賃もアンタに払ってもらうからね!」
「私一人で三部屋ぶんか……フフフ、このアパートは実質私が制圧したようなものだな!!」
まったく懲りていない。
そんな出来事があってから年が明け、雅人は空き時間ができるたびに足繁く乃愛の部屋に通い、ご機嫌取りに勤しんだ。
大家は他の住人に、「鏡開きが過ぎたらヤキモチも飽きるだろうよ」とドヤ顔で語って顰蹙を買っていたが、実際その通りになった。
その後の二人は口論しながらも笑顔が絶えることはなく、心配する住人はいないようだ。
さらに月日が流れ、紗苗が水商売を辞め、新たに化粧品の研究開発と販売の会社を立ち上げる。ブランド名は『サラサクラス』。
ベース肌の色が異なるウクライナにも拠点を置いた理由を「なんとなく? 美人さんが多いし」と語ったが、薄雪荘の住人達は真相を知っている。
その見た目と口調からは誰も想像できないが、紗苗は高学歴の理系女子で、雅人の勉強を見てやったりもしていた。
所得も他の住人が知らないだけで、ほんの数年で億超えの貯蓄がある。
指名していた客も、美女と酒を飲みながら化学や数学の話ができるのを楽しみに通う、ちょっと変わり者の高所得者ばかりだったようだ。
そして二〇一〇年――また夏がやってきた。
それぞれ年齢を重ね、それぞれの仕事で活躍している。
今回の記念日は住人達でお金を出し合って、ライブハウスの貸し切りだ。
ステージ中央には十二弦ギターを抱えた賢也が座り、乃愛はノーサンブリアン・スモールパイプスを手にしている。
乃愛は現在『レオノーア』というアーティスト名で音楽活動を続けており、人工ボイスに歌わせている楽曲が、動画サイトなどで絶大な支持を得ている。
そして『レオノーア』で人間のボーカルが入る曲はすべて英語で、女性ボーカルが一人と、男性ボーカルが一人――
漫画家、美邑静香がジャケットを手掛けたアルバムは、インディーズとしては空前の大ヒット作となったが、「人間関係が煩わしい」とメジャーからのオファーはすべて断っているようだ。
某大企業の社長は「我々は天才を守る存在であって、飼いならすための存在ではない」と言ったそうだが、それは乃愛の父親であり、ただの親馬鹿である。
今回の記念日は賢也の喉の調子が悪いということで、他の住人が歌う。
その代打ボーカリストは大学でも英語を学び、今ではドイツ語も話せる。
住人達が囃し立てる中、代打ボーカリストが「今日はアニソンは歌わないぞ!!」と告げると、演奏が始まった。
やはりマイクを使わず、肉声のみで『あの曲』を歌う。
それもこれまで毎年続いている光景だ。
雅人も、乃愛も、静香も、紗苗も、賢也も、篤志も、元大家の佳恵も――全員が目を閉じている。
その瞼の裏には、あのステージが、あの日々が浮かんでいるのだろう。
たった一週間――
その価値は、共に日々を過ごした者にしか分からない。
誰が手を差し伸べ、何を導き、導かれたのか。
誰が何を求め、何を諦め、また顔を上げて進むのか――
生きている限り、どんなことがあろうとまた次の一週間がやってくる。
けれど、確かにそこには鮮烈で濃密な一週間があった。
あるアパートの住人達だけが経験した、切り取られたフィルムのような日々。
いつまでも忘れることのない――――
『エクストラ・セブンデイズ』




