03 情報の海の浜辺で私を捕まえてごらんなさいとかやるタイプ
「やりあって勝てんのか……?」
二〇四号室の住人である陣内篤志は部屋に戻り、己の拳を見つめて自問自答していた。
プロの格闘家としては食っていけず、バイトと両立の生活。
パッとしない戦績と三十歳という年齢を考えれば、そろそろ進退を決めるべき時期に差し掛かっているのだ。
過去に刃物を持ったチンピラと喧嘩したことがある程度で、どうにかできる相手ではないだろう。それでも、男は拳にバンテージを巻き始めた。
「ここで死んだらそれもそれ、か……」
普段はオープンフィンガーグローブを装着して、リング上で戦う総合格闘技の選手だ。武器を使用する武術家とは違う。
「『刃物を向けられたなら、それは殺し合いだ。応戦する必要はない』か――」
格闘技はスポーツだ。護身術ではないし、殺人術でもない。
「それでも俺は試したい。ここで終わるべきなのか、知りたい」
そう呟いた格闘家は固く拳を握り締めて立ち上がり、ドアを開け放つ――
すると、階段へ向かう共用廊下に腕組みした大家が立っていた。
「なっ!?」
「『なっ!?』じゃないよ脳筋バカが。アタシの部屋に来な!」
「うるせえババア! 俺は自分を試したいんだよ!!」
「死ぬ前に滞納分の家賃払いなっ!!」
「うっ……そ、それはっ……卑怯だぞババア」
「死に逃げできると思ったら大間違いだよこのクソガキ。いいから早く来な!!」
背を向けて階段を下りる大家の後を、身長一八十センチでTシャツとジャージにグローブ姿の男が、すごすごと付いていく。
アパート最強決定戦は、あっけなく幕を下ろした――――
大家の部屋に、薄雪荘の住人全員が集められた。
全部で八部屋だけなので、大した人数ではない。
大家と孫の乃愛、無人の資料部屋を飛ばして親が出ていった祐、二階は服を着た紗苗とそのヒモである賢也、高校生の雅人、漫画家の静香、格闘家の篤志の総勢八名が、卓袱台を隣の部屋に移動した四畳半の部屋と、藺草のラグが敷かれたダイニングに点々と座っている。
住人達の視線は、部屋の奥に立つ聖隆に向けられていた。
「えー皆さん。まず優先度の高い情報からお話しますね」
言うと、大家の部屋にあった備忘メモ用のホワイトボードにペンを走らせる。
そこに書かれたのは『ここは異世界です』という文字。
「それは分かってるんだが……」
「静香さんは黙ってて。訊きたいことはあとで個人的に訊いて!」
「異世界ってどこー?」
「紗苗さんも――」
「いいから黙って話を聞きな!!」
大家が一喝すると、乃愛と紗苗は不満げに口を尖らせた。
聖隆はホワイトボードの文字を消して、ひとつ咳払いをする。
「まず、皆さんは一週間後に元の世界、元の時間に戻れる予定です。それまでこのアパートでの生活を我々が全面的に支援します。次に、この世界では簡単に人が死にます。一人で外に出ないようにしてください。最後に、残念ながら祐君とはここでお別れになります。まずこの三点についてのみ質疑応答に移りたいと思います。それでは、質問のある方――」
記者会見の司会者のような進め方だが、多人数相手の説明の場では理に適っていると言えるだろう。
聞きたいことと知っておくべきことに、相違があるのは当たり前なのだ。
ところが、アパート住人側から望外の反応が返ってくる。
黒髪の緩やかなウェーブが無造作に撥ねるボブヘアーの美女が、キリッと引き締まった表情で理路整然と言う。
「詳細については住人代表として、この美邑静香が聞こう。みんなも知りたいことがあれば、紙に書き出して優先順位を付けておいてほしい」
聖隆が「ほう……」と感心していると、そこからさらに意外な展開になる。
「誰が代表だてめえ、このオタ女! 自分が話を聞きたいだけだろ!!」
「アンタに任せたら『この世界に住みましょう』になるだろうが!!」
「聖隆さん、騙されちゃいけません。この人は草野球で『代打の切り札は私だな』とか言いながら素振りしてるから打たせてみたら三塁に走るタイプです!」
「焼きそばの屋台で売り子を手伝わせたら、ちょっと目を離した隙に勝手にカレー焼きそばにして、怒号が飛び交う中で何故か売上伸ばすタイプ」
「そうそう。静香ちゃんは路上ライブしてるバンドにしれっと乱入して、バラード曲でギーコギーコいう変な楽器鳴らしてつまみ出されるタイプよー」
ギロだ。そしてすべて実際にあった怖い話だ。
だが聖隆はそれらを例え話だと解釈したのか、表情を変えずに言う。
「能動的なタイプなんですね。正確な情報を得たいのであれば、受動的でいるよりいいのではないでしょうか?」
ギロ女以外の住人達が、顔を寄せあってヒソヒソと話している。
「詐欺に騙されるタイプ?」
「ありゃ顔に騙されるタイプだね」
「美男美女なのに両方残念ってどうなのよー」
「難しい言葉使ってるだけでバカなんじゃね?」
「それは言いすぎですよ」
するとカレー女が住人達を指差して――
「このようにまるで要領を得ないだろう? だから私が聞くと言っているのだよ、異世界の人!」
住人達は『うわぁ……こいつ』という顔をしているが、聖隆は「そうですね」と何故か同意している。
「とにかく、訊きたいことを纏めてもらったほうが話が早いと思います」
「どしどし応募して欲しい!!」
話が進まないのは三塁に走る女のせいだよ……という空気はあれど、時間が勿体ないと賢明な判断をした住人達が、渋面のまま静香の提案を呑んで質問を纏める。
その結果、このような質問項目となった。
一、絶対に戻れる保証はあるのか?
二、吸血生物や有毒生物、また疫病などに対する警戒は?
三、大気成分に有毒物質は含まれていないのか?
四、人間を襲う敵性生物は存在するのか?
五、もしアパートの住人がこちらの世界で死んでしまった場合はどうなる?
六、大久保祐は本当に死んで生き返ったのか?
七、このあと日本で祐と一緒には暮らせないのか?
八、この世界に魔法はありますか? 私も使えますか?
「最後のは美邑さんの個人的な質問でしょ……あとで訊いてくださいよ」
「む。みんなは知りたくないとでも言うのか雅人君!!」
「優先度の問題だろうが……アンタはあとからゆっくり訊きな!」
ともあれ、質問が纏まったので聖隆が一つずつ答えていくことになった。
「まず、一の質問ですが、この世界には神様が実在して神託を受け取る巫女が存在します。こんな状況ですので信じてもらいたいのですが、神託は絶対ですので帰りたくなくても一週間後には日本に戻ることになります」
「そんな――モガッ!」
「静香さんは黙ってて!!」
魔法少女を夢見る女の口は乃愛の手で塞がれ、聖隆が話を続ける。
「二番目の質問ですが、この世界には蚊やダニのような吸血害虫は存在しません。有毒生物は存在しますが、この付近には近寄れないようにする結界のようなものがあるとお考えください。疫病についてはこの特異な状況に前例がありませんので、追って調べます。大気成分については問題ありません。普通に生活が可能です」
「なら、簡単に死ぬってのは何が原因なんだい?」
「それが四番目の答えになるのですが、この世界には、捕食や威嚇、防衛反応ではなく、ただ殺害するためだけに人間を襲う生物が存在するんです」
「俺らで対処できるのか?」
「ほぼ不可能とお考えください。強く素速く身体も頑丈ですから」
「だからみなさん武装しているんですね?」
「そう。外にいる仲間も含めて我々は『冒険者』という職業で、日本人の感覚で言うと『なんでも屋』なんだが、この世界では『無謀なことをする人達』という意味で、そう名付けられているんだよ雅人君」
「モガモガモガーッ!」
「黙ってて!!」
静香はまだ口を押さえられている。
「次に、この世界で亡くなってしまった場合は、存在そのものが抹消されてしまいます――つまり、『無』の状態になってしまうのです」
「難しい話はいいよ。こっちにも日本にもいられなくなるってことかい?」
「はい。酷な話ではありますが……我々も警護に万全を期す所存です。それでも、みなさんは安全第一の行動をお願いします」
静香以外の住人達が、表情を曇らせる――
危険な世界で一週間過ごせと言われているのに、万が一のことがあれば無の存在になってしまうのだ。
不条理に動揺する住人達を見かねたのか、あえて軽い口調で聖隆が言う。
「不安に思う気持ちは分かりますが、我々は戦う力のない一般人を守るために日々鍛錬を重ねていますから、どーんと任せてください!!」
すると住人達が、またしてもヒソヒソ話を始めた。
「リアルで『どーんと任せろ』なんて久しぶりに聞いたわー」
「モガモガッ……」
「いまどき漫画ぐらいでしか見ねえよな」
「ああ見えて小野寺さんと同世代だったりして……」
「ちょっと乃愛っち、ウチの賢ちゃんを『どーんとマン』と一緒にしないで!」
「気遣ってくれてるのに、その反応はあんまりでは……」
「アンタ達、ちゃんと話を聞きな!!」
聖隆は言葉を失って顔を引き攣らせている。
どんな状況であろうと、このアパートの住人達はマイペースなのだ。