02 売約済かと思ってよく見たら大成功ってなんだこの看板!?
既に日は暮れていた。明るいはずがない。
それどころか、すべてが白い光なのだ。こんなのは昼ですらない。
突然の異常事態に、雅人はドアノブを掴む手を引く。
木製のドアを見据えたまま呆然と立ち尽くしてから、再びゆっくりと押し開いてみると――
「風景が……ここはどこなんだ……」
もはや外の明るさを気にしている場合ではないほどの異常事態。
白い光は消失していたが、今度は周囲の景色が一変しているのだ。
雅人は明るい日差しの下にある景色に目を凝らす。遠くに数人の人影が集まっている様子が見える。
左開きのドアから外に踏み出した雅人が首を右に向けると、やはりドアを開けた乃愛が驚愕の表情を浮かべて立っていた。
雅人は口を開けたままの乃愛に駆け寄って言う。
「なあ……このアパート、事故物件になっちゃったぞ?」
「何それ? それどころじゃないでしょっ!?」
「いや、それどころじゃないけどそれどころだろ!!」
「何がどうなってるの、これ?」
「いきなり外の景色が変わる理由は、何が考えられる?」
「ドッキリとか?」
「アパートごと国外に移動はスケールでかすぎだろ」
「ここって外国なの?」
「それは仕掛け人に訊いてくれ」
「やっぱりドッキリなの!?」
見慣れたアパート周辺の風景は、何もない荒野に変わっている――
そのとき、頭上から狂喜の含まれた声が降ってきた。
「マジか!? マジだーっ!!」
籠もった変な声の発生源である二階を見上げると、厳ついガスマスクを装着した女性が、共用廊下の手すりから身を乗り出していた。
二〇三号室――つまり雅人の隣室の住人であり残念美人でもある、漫画家の美邑静香に、乃愛が問いかける。
「静香さーん! 何で喜んでるのー?」
「おや、お二人さん。どこから出てきたのかは訊かないが、避妊は大事だぞ?」
「聞き取りにくい声で下ネタかよ!? 美邑さん、これって何がどうなってるんですか?」
「壮大なドッキリか、私達が別の世界に来たかの二択だよ雅人君!!」
「他の選択肢は……」
「ない。集団幻覚を発生させるような薬物も、状況的に考えにくい」
「そう言いながら、なんでガスマスク装着してるんですか!?」
「いきなり死ぬ可能性もあるからな!」
「俺と乃愛は生きてますけど?」
「それもそうだな」とマスクを外した美貌を、残念なものを見る目で眺める雅人を余所に、乃愛は隣の大家の部屋へ走り、乱暴にドアを叩く。
大家も無事だったようで、程なく姿を現した。
「ちょっとー。今日はお休みだから寝てたのに、うっさいんだけどー?」
さらに頭上から声がする。二〇一号室――つまり雅人の隣室の住人であり、夜の仕事で稼げるほどの美女である、井川紗苗だ。
まだ寝惚けているのか、アパートを取り巻く異変に気付いていない。
雅人は再度二階を見上げ、すぐに視線を外す――
その様子を見た静香がニッと笑いながら隣の紗苗に言う。
「紗苗嬢、男子高校生には少々扇情的すぎやしないか?」
紗苗は下着姿だった。
「きょうびの学生さんは、このぐらいじゃオカズにもならないってー」
「アンタがどれだけ昔の学生を知ってんだよ!! 部屋に戻って服を着な!」
外に出た大家が叱咤すると、紗苗はサイドに垂らしたオレンジブラウンのロングヘアーを纏めていたシュシュを外しながら「うざー」と呟き、部屋に戻った。
そんな騒ぎに二〇四号室の住人も共用廊下に出ている。格闘家の陣内篤志は呆然とした表情のまま問いかけた。
「核兵器とかじゃねえよな?」
「このアパートだけ助かるわけないだろ!! 脳筋バカが!」
「うるせえババア!! あんたはこの状況説明できんのかよ?」
「隣の変人に訊きな!!」
「アナザーワールドアパートと考えれば、小洒落が利いてるじゃないか」
「意味分かんないんだけど……」
半眼で乃愛が言う。だが変人を変人と理解している篤志の視線は、遠くの人影を捉えていた。
「つーか、あっちから近付いてきてる奴らは大丈夫なのか?」
「六人――いや、今は五人だな」
篤志と静香の言葉に、全員がアパートに背を向ける。どう見ても一般人とは思えない容姿の男女が五人、こちらに向けて歩を進めているのだ。
「みんな部屋に戻って鍵かけな!! あいつら武器を持ってるよ!!」
大家が叫ぶ。
五人は服装こそ軽装だが、物々しい武器を携えている。剣や槍、斧など、まるで中世風ファンタジーゲームのような武器ばかりだ。
「乃愛は大家さんの部屋へ! 俺は祐の部屋に行きます!!」
雅人は二人を大家の部屋に押し込み、祐の遺体のある部屋まで走って鍵とチェーンロックをかけると――
不意に背後から声がする。
「あの……」
そこには祐が立っていた。
雅人は顎が外れそうなほど開いた口を、手で押して閉じる。
今は窓から自然光が入るので、室内もそれなりに明るい。
あらためて死んでいたはずの少年を凝視する雅人。痩せ細っていた身体は健康的になり、肌の血色もよく、更には服まで着替えている。
「祐、生きてるんだよな?」
「えっと……はい。生き返りました」
「ゾンビ?」
「違いますっ!! 転生したんです。この世界に」
「えっ!? どういうこと?」
「地球の日本のぼくは死にました。別の世界で新しい人生を始めます」
「それって俺も?」
「いえ……たぶん違うと思います」
「何がどうなって……?」
困り顔の祐を見た雅人は、一度天を仰いでから玄関に腰を下ろす。
「祐も分からないんだな……」
「はい……ごめんなさい」
相手はまだ小学生だ。状況を整理すべく、雅人が質問を変える。
「そもそも、どうして一人きりで倒れてたんだ?」
「母さんが男と出ていって……帰ってこなかったんです」
「なんで死ぬ前に――生きてるからややこしいな……なんでああなる前に大家さんのとこに行かなかったんだよ」
「暑いなーって思いながら我慢してたら、今度は寒くなってきたから窓閉めてたらいきなり倒れちゃって……熱中症だったみたいです」
「『みたいです』って……お前はいつも一人で抱え込みすぎるんだよ」
「ありがとう、雅人君。鍵をなくしたときとか騒ぎになったときとか、いつも気にかけてもらって嬉しかったです」
「そんなこれから死ぬみたいに――ってもう死んでるのか……」
「外の声、聞こえてたんだけど、どうして雅人君はこの部屋に来たんですか?」
「もし祐の遺体を持ち去られたら、ややこしいことになるなーと思って」
「よく分からないけど……心配してくれてありがとう」
コン、コン、
いきなりドアをノックする音に、雅人の身体が跳ね上がる。
「あ、たぶん出ても大丈夫だと思いますよ」
「相手が何者か分かってるのか?」
「こっちの世界の人です」
「問題はそこじゃなくて――」
狼狽える雅人を余所に、ドアの向こうから聞こえたのは日本語だった。
「あのー。大久保祐さんのお宅ですかー?」
気が抜けるぐらい穏やかな男性の声。
祐の顔を見ると、「どうぞ」とでも言うように掌を上に向けた右手を差し出したものの、雅人はドア越しに返事をする。
「ドッキリと浄水器は間に合ってます」
「あははっ、巻き込まれた人ですね? 簡易浄水器はありますけど、『大成功!!』の看板は持ってきませんでしたねー。少し、話を聞いてもらえませんか?」
「胡散臭いんですけど……どう信用しろと?」
「うーん……『鍵もドアも無意味』と言えば、分かってもらえますかね?」
その言葉に首だけ回して振り返る雅人。苦笑する祐。
「い・い・の?」と口だけ動かして訊く雅人に、少年はゆっくりと頷いた。
「開けますけど、いきなり殺さないでくださいね? 遺書ぐらい書きたいし」
「はい。殺しません。遺書も不要ですよ? ちゃんと戻れますから」
「マジで!? このままだったらどうしようかと……」
チェーンロックを外してドアを開けると、ドアの前には穏やかな笑みを湛えた爽やかイケメンが立っていた。
身長は一七二センチの雅人より高く、見た目は日本人そのものだが、腰には剣がぶら下がっている。
入室を促す雅人に、イメケンは「お邪魔します」と応じた。
「どうぞ――と言っても他人の部屋ですけど。俺は鹿生雅人といいます。雅人でいいです。あと、敬語もいいです。どう見てもそちらが年上ですから」
「では、そうさせてもらおう。はじめまして、僕は矢上聖隆。年齢は二十二歳だ。聖隆と呼んでくれて構わないよ」
「彼は――って知ってるんですよね? なんか複雑な状況みたいですけど……」
祐に向けた手を引っ込めると、聖隆と名乗った男は少し表情を曇らせて言う。
「確かに複雑かな……彼は転生者だから。だけど、雅人君のほうがもっと複雑な状況にあるんだけどね?」
「なんとなく、そんな気はしてます」
「すべてを説明すると長い話になる。まず優先度の高いものから話そう」
もう、ほっぺたを抓って確認するまでもないだろう。
これは現実で、ここは異世界なのだ――――