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01 エアコンが壊れた日。エアコンが壊れた日。(二台分)

 西暦二〇〇三年八月上旬――日曜の夕暮れ時。

 日没時間はわずかに早くなってきたが、まだまだ気温は下がらない。

 駅から少し離れた住宅街。緩やかな勾配の上に、二階建てのアパートがある。

 名前は『薄雪(うすゆき)荘』。


 そこにコンビニの昼勤バイトを終えた高校生、鹿生雅人(かのうまさと)が帰ってきた。

 Tシャツをばたばたやりながら重い足取りで階段を上がり、二〇二号室のドアを開けて熱気の籠もるダイニングキッチンを足早に進み、机に無造作に置かれたリモコンへと手を伸ばす。

 旧型の白い長方形から「ピッ」と音が鳴ったものの、動く気配がない。


「マジか……」


 無慈悲な沈黙に、項垂(うなだ)れた雅人の顎先から汗が滴り落ちる――

 急いでもう一部屋のエアコンも同じように起動させてみると、まったく同じ反応を返すだけだった。どちらも機械としての可動寿命を全うしたのだ。


 エアコンは最初から備え付けられていたもので修理交換は無償だが、依頼は大家を通さなければならない。

 窓を開けて扇風機のスイッチを入れた雅人は、部屋を出て階下へ向かった。

 大家の部屋は一階左端の一〇一号室。インターホンを鳴らすべく手を上げると、室内から「開いてるよ」と声が飛んでくる。

 ドアの開け閉めと階段を下りる音で、店子(たなこ)の来訪を察知していたようだ。


「今のご時世に危ないですよ、大家さん」


 雅人は鍵のかかっていないドアを開け、部屋に入る。

 2DKの奥にある部屋は引き戸が外されており、エアコンが稼動していても室温は高い。

 卓袱台(ちゃぶだい)に置いたノートパソコンで何かを入力しているのが、このアパートの大家である笹岐佳恵(ささきよしえ)だ。

 とうの昔に還暦を過ぎた白髪の老人が言う。


「アンタが今じゃないご時世をどれだけ知ってんだよ」

「人が心配してあげてるのに――」

「ドアの前に立ってて鍵は直前に開けたんだよ! それで、用事はなんだい?」

「それはそれで恐いよ!? 部屋のエアコンが両方壊れたっぽいんですけど」

「今忙しいから、隣の孫に言っといてくれるかい?」

「ドアの前に立ってたんじゃ……」

「今からまたドアの前に立つから、さっさと出て行きな!」

「それが仕事?」

「鍵閉めるんだよ!!」


 部屋から追い出され、隣の一〇二号室へ向かう。

 大家の孫は高校一年生の女子で、名前は乃愛(のあ)だ。

 部屋の前で立ち止まった雅人は、インターホンを鳴らすべく差し出した右手をそのまま高く上げ、汗だくでヨレヨレのTシャツの脇に鼻を近付けてから、思案顔で二階を見上げた。

 部屋に戻ってシャツを着替えたところで、二階への往復でまた汗をかく。

 暫時(ざんじ)悩んだあと、結局ヨレシャツ姿のまま四角いボタンを押した。

 今度は中から開錠の音がして、チェーンロックが掛かったままのドアから乃愛が半分だけ顔を覗かせる。

 年齢と性別を考えれば正しい応対ではあるが、雅人は少し肩を落とす。

 大きな瞳を上に向け、セミロングの黒髪を耳にかけながら少女が問う。


「何?」

「俺の部屋のエアコンが壊れたみたいなんだ」

「そんなのお婆ちゃんに言ってよ」

「今、言ってきたとこなんだけど……」

「もう! なんでこっちに来させるかな!! メーカーと年式と型番メモって持ってきて」


 そう言ってバタン。と閉まったドアの前で額の汗を拭った雅人は、また階段を上がって灼熱の部屋に戻り、冷酷無情な冷えないエアコンの個人情報をメモしてからシャツを着替え、部屋を出た。

 再び一〇二号室のインターホンを鳴らすと、予想外にドアが大きく開いて「どうぞ」と声がする。


「いいの?」

「何かしたらこれで殺すから」


 手にした黒い物体から、ジジジッと電気的な音がする――スタンガンだ。


「たぶん死なないと思うけど何もしないよ。隣が大家さんだし、あとで彼氏に怒られるとかは勘弁してほしい」

「暑いでしょ? せっかく着替えたんだし、少し涼んだら帰って」


 『彼氏』部分のスルーよりも意外な言葉の返球に、雅人は一瞬瞠目してから乃愛のあとを追い、奥にある二部屋の右側の部屋に入った。

 いくつかの可愛らしいクッションに囲まれた中央にある小さな白い机は、冬にはヒーターをセットして炬燵として使える。雅人の自室にも色違いで同じものがあるのだが、本来の職務を遂行している機械の存在が、そんな些細な共通点など吹き飛ばしてしまう。


「はあぁぁぁ……天国……」

「汗が引いたら帰ってね」


 乃愛はTシャツの上にゆったりとしたピンクのパーカを羽織り、下はジャージ素材で膝下丈の赤いハーフパンツだ。

 引き戸を開けて部屋を出た乃愛は、ツードア冷蔵庫を開けると十本入りの箱入りアイスから二本取り出して戻り、一本を雅人に差し出す。


「ん」

「ありがとう。バイトから帰ってずっと地獄だったから助かる」

「冷蔵庫は大丈夫なんでしょ?」

「俺、アイスとか買い置きしないから……製氷スペースしかない冷蔵庫だし」

「ああそっか。貧乏なんだっけ」

「もうちょっとこう、オブラートで包んでくれないか」

「ごめー」

「投げやりな言い方だな!!」


 そう言ってアイスを(かじ)る。二人とも笑顔だ。


 このアパートの家賃は近隣の相場と比べれば驚くほど安いのだが、契約の条件に『休日には住人が集まって食事会を開催したり、建物の共用部分や周辺の共同清掃を行うこと』といった項目が含まれている。

 それらは大家の方針であり契約前には簡単な面談もあるため、人間関係を(うと)む人が契約を締結させるのは難しいだろう。


 入居二年目の雅人も他の住人と何度も顔を合わせているし、乃愛とも軽口を言い合えるような距離感ではあるが、通う学校も違えば一緒に買い物に出掛けるような仲でもない。今日までは互いの部屋に入ることもなかった。


 雅人は軽い口調の中に、やや勿体を付けながら切り出す。


「そうそう。修理依頼ついでに大家さんに言っといてほしいんだけど――」

「何?」

「俺、あと半年ほどしたら出ていくと思う」

「ふーん。いよいよダンボールハウス?」

「違うよっ!? 親父の借金返済が終わるから、広めのマンションに家族みんなで住もうって話になったんだよ」

「そうなんだ……よかったね」


 その言葉に含まれた複雑な感情など読み取れるわけもなく、額面通りに受け取ったのだろう。若輩者(じゃくはいもの)は少女から視線を逸らし、やや沈んだトーンで続けた。


「まあ、俺は高校出たら働くから、そっちもまた出ていくと思うけど」

「大学行かないんだ? 私もだけど」

「えっ……なんで?」


 顔を向けた雅人から視線を外し、食べ終えたアイスの棒を振りながら言う。


「なんか、人間の集団がね……(わずら)わしくて。『どんな人が』とかじゃなくて、集団になると『うわ人間の集団ー』って」

「人間の集団って……同調を求められるとか、そういうのかな? それで乃愛は、引き籠もりたいのか?」

「そうなるねー。結果的に」

「結果というか、向かっていってるだろそれ」

「雅人君は大学行きたくないの?」

「学費の問題もあるけど、もう二年の夏だし。どのみち今からじゃ無理だな」

「やりたいことがあるなら、短期の専門学校でもいいんじゃない?」

「うーん。考えてないなあ……そっちこそ、将来はどうするんだ?」

「私はこのハイツの大家を引き継ぐから」

「アパートだろ?」

「坂の上にあるからハイツでいいの! アパートってイマイチでしょ?」

「まあ、俺は出ていくからどっちでもいいけど……」


 そんな他愛のない会話をしているあいだに身体が冷えたのか、雅人は肩を(すく)めて身震いする。


「寒っ! そろそろ部屋に戻るよ」

「ごめん。室温、私に合わせてたから……」

「いや、生き返ったよ。長居してごめんな? エアコンの件、よろしく」


 そう言って雅人が立ち上がると同時に、どこかの部屋から重たい音が響く。

 何かが倒れたような、あるいは崩れ落ちたような――そんな音だ。


「二階じゃないな……また美邑(みむら)さんの資料が崩れたのかな?」

「かもね。本に埋もれて死んでたりして」

「事故物件になるだろ!? 俺がついでに見ておくよ」


 一〇三号室は本だらけの資料室で、ガスも止めて部屋を出る際にブレーカーも落としていくという火気厳禁の部屋だ。

 その真上の部屋に住んでいる借り主が本を取りに下りてきた際に、積んである本が崩れるだけならまだマシで、何をどうやったのか本棚ごと倒れることもあるデンジャラスゾーンなのだ。

 雅人がドアをノックすると応答はなく、しっかり施錠もされていた。


 更にその隣の一〇四号室には、母子家庭の親子が住んでいる。

 外はもう暗いのに明かりが見えないことに違和感を感じたのか、雅人はインターホンのボタンを押した。

 室内からの音が聞こえず、インターホンの作動ランプも点灯していない。


「まさか……電気が止まってるのか?」


 資料室が無人ならば、一〇二号室から距離はあるが、この一〇四号室から発せられた音だった可能性もある。

 ここが無人ならば、やはり一〇三号室で問題が起こった可能性が再浮上する。


「これは確認であって不法侵入じゃないからな……」


 そう呟いて雅人がドアノブを回すと鍵はかかっておらず、すんなり開いた。

 暗い部屋の中から、むわっと熱気が吐き出される。


「誰かいますかー?」


 ドアを開けた正面には目隠しのためのボードがあり、室内を見渡せないようになっている。

 ボードから顔だけ覗かせた雅人は、暗くてよく見えないのか、首を傾げた。

 もし空き巣ならば、刃物やバールのようなものを持っているかもしれない。

 靴を脱いで警戒しながらゆっくり歩を進める足に、何かが当たる。

 視線を足元に落とすと、そこには――


「祐っ!?」


 この部屋の住人の一人である小学六年生の少年、大久保祐(おおくぼゆう)だ。

 玄関から入ってすぐのダイニングキッチンで寝ているはずがない。


「おい、大丈夫か祐! 何があったんだ!?」


 返事がない。雅人は慌てて玄関付近の電灯のスイッチを押すが、点かない。

 やはり電気が止まっているのだ。

 脈を調べるために祐の腕を掴む。


「肌は乾いてるのに、こんな体温って……脈は…………止まっ――――」


 それでも雅人がパニックを起こさずにいられるのは、心臓も呼吸も停止した祐の細い腕から、まだ熱が失われていないおかげかもしれない。


「と、とにかく救急車!! 大家さんにも!」


 立ち上がった雅人が靴を履いてドアを開くと――


 アパートの外は(まばゆ)い光に覆われていた。


「なんだこれ!?」

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