セクハラ・イフ
21時を少し回った頃。
7階のフロアには、もう二人しか残っていない。
背中合わせにパソコンに向かうのは、30代も半分以上過ぎた男二人。ドラマチックな要素は何一つない。カタカタと打ち鳴らされるキーボード。コンビニの袋に入っている夜食が、まだ終わりそうもない仕事を物語っている――。
「……なあ、川畑」
「ん、どうした?」
「セクハラって知ってる?」
「……仕事をしろ、奥山。俺は会社に泊まるつもりはない」
「俺さ……セクハラって怖いと思うんだよね……」
「とりあえず、俺の話を聞く気はないんだな?――OK、相槌だけは付き合ってやろう」
カタカタカタカタ。
キーボードの音――。
「ほら、この前、ウチでも騒ぎになったじゃん?」
「前橋店の所長だろう?あの人は自業自得だろうよ」
「解雇……」
「いや、そこまでいってねえよ。飛ばされただけ」
「でも、事実上のキャリア崩壊じゃん?」
「サラリーマンの敵は、ライバル会社じゃない。女、賭博、運動不足だ。敗者は去る事しかできん」
「あんなに結果を出したのに」
「リスクの高い馬券を買う程、ウチの会社は傾いちゃいない。必要なのは俺等みたいな小心者の小作人なんだよ」
「AIが導入されたら俺等は解雇だな」
「鉄腕ア〇ムが誕生したらな。〇ッパー君なら、まだ俺の方に分がある」
「〇ッパー君の会話能力は伊達じゃないぞ?」
「そうだ。だが、彼は階段を登れない。マルトモ不動産のえげつない階段を登れなければ、ウチの営業部は仕事にならん」
「〇ッパー君はセクハラをしない」
「随分とセクハラこだわるな。なんかあったのか?――いや、こっち向くな、仕事しろ。最悪、喋っててもいいから、手は動かせ」
「ちょっと勉強したんだよ」
「中居所長の件があったからか?お前って、あの人と付き合いがあったっけ?」
「いや、全然別のきっかけなんだけどな」
「ヒマな奴。そんなんじゃあ、彼女なんてできねえぞ?」
「あ、それセクハラ」
「やかましい」
「でもさ、実際、セクハラって、発信者の言い分で全部決まるじゃん?」
「ああ、前に研修でやったよな。なんか、いかにもなババアが、女性の権利意識を掻き立てるヤツ。ああいう人種が、太平洋戦争中に御近所を監視していたんだと思うぜ」
「うわぁ~」
「だって、セクハラの制度を使って幸せになった女も男もいないだろう?日本には合わないんだって」
「そう思うだろう?」
「そう思うよ。現にそうじゃあねえか」
「俺もそう思う」
「思うのかよ!話は終わりじゃねえか!」
「俺も、研修に来たあのババアみたいなのは嫌いだよ。女性の権利拡大なんて言ってるけどさ、これ以上総務部のマミさんに権利を与えたら、きっと世界征服を始めると思う」
「お前、何気にひどいな。勉強したんじゃないのかよ」
「ああ、ちょっとググっとしただけだからな」
「それは勉強してねえな!発言が俺とかぶっている理由が分かったよ」
「でも、条文は見た」
「何の?」
「男女雇用均等法」
「お前って、法学部だっけ?」
「いや、体育学部」
「びっくり」
「でも、民法の授業は単位と関係なしに受けてた」
「変態かよ」
「体育学部でも日本語くらい読める。新聞も読める。トルストイは諦めたけど、男女雇用均等法の11条は読めた。短いし」
「短いんだ。で、何て書いてあんの?」
「セクハラに対して、会社は必要な措置をとれって書いてあった」
「そんだけ?」
「それだけ。あとは、別に厚生労働省から『こうしなさいよ~』っていう指針が出てる」
「それには?」
「セクハラを訴えた人が、不当に扱われない様に気を付けてって書いてあった」
「……」
「……」
「おかしいじゃないか」
「おかしいんだよ」
「中居所長、なんで飛ばされたんだ?」
「わからん。少なくとも、厚生労働省はそんな事を望んでないね」
「セクハラは発言者の言い分で決まるってのは?」
「書いてない。でも、それは当然なんじゃないか?」
「?」
「?」
「いや、わかんねえよ」
「だって、嫌な事って人それぞれだろう?」
「まあな。ああ、この際だから言っとくけどな、俺はここの黒子をいじられるのが凄く嫌いだ!」
「その鼻糞はともかく、嫌な事は人それぞれなんだから、定義なんてできないじゃん?相手の判断にゆだねるしかないじゃんか」
「それはそうだが、だからって気に入らない発言をしたら、いきなり左遷されるのはシャレにならないだろう?家庭がある人なんて、私生活もぶっ壊れるぞ?」
「だから、それが間違ってるんだよ」
「どういうことだよ?」
「罰が重すぎるんだって。本来、セクハラ問題って、会社の立場を利用して嫌な事を言ったりするなってルールじゃん?罰を与えるって考え方がおかしいんだ」
「罰を与えないで解決するのか?」
「しらん」
「おい!」
「だって、人と人が同じ場所で働いてるんだから、トラブルなんて絶対おきるじゃん。即解決なんて、できっこないだろう」
「ダメじゃん」
「でも、罰を与えても『解決』はしてないだろう?」
「――それもそうだ、な」
「職場の立場を利用して、嫌がる事を言ったりするのは反則だろう?だから、そういった弱い声を拾って、上手くやっていきましょうよってのが本来の主旨なんだと思う」
「でも、それだと無理やり体を触られたなんてケースはどうすんだよ。〇ン〇ンを強要させられたってのもあるんだろう?」
「そこまでいくと、強制わいせつとか、強姦罪だろう?男女雇用均等法じゃなくて、刑法の領域じゃん」
「なるほど」
「混ぜて考えちゃうから分かり難くなるんだよ。『少子化問題を加速させる』なんて言い出す人もいるだろう?」
「まあな」
「大事なのは、対話と同意なのに、刑法の『罰』って考えるから強権化しちゃう。それじゃあ、発言する側も言い辛いよ」
「でも、現にそうなってるよな?」
「利害関係が整ってるんじゃないか」
「誰と誰が?」
「会社、男、女……もしかすると、警察も」
「男は分かるが……」
「セクハラって体にすれば、企業は性犯罪者を出さなくて済むだろう?キチンと対応しましたってアピールにもなる。女性も嫌いな上司を潰す事ができるし、警察も立件が面倒くさい性犯罪が減る」
「それは……」
「あくまで、想像です!」
「だよな。いくらなんでも、酷い」
「でも、実際にセクハラって単語が風通しの良い労働環境を作っているかって言われると、疑問だろう?」
「それでも、女の人が声を上げられる場ができたってのは大きいはずだぞ」
「いや、足りないだろう?」
「ん?」
「もっと、言いやすくしなくちゃならんだろう?そんでもって、もっと男も勉強しなくちゃいけない。セクハラを女性の権利向上に結び付けちゃうのは、問題の輪郭をぼやかしちまう。大事なのは、男も女も、気持ちよく仕事ができる環境を作るって意識なんじゃないか?セクハラは女性の権利じゃなくて、勤め人全体の課題――というより、倫理感なんじゃないか?決して性犯罪を覆い隠す言葉じゃあないはずだぞ」
ヴーン、ガチャ、ずりゅー。
プリンターが唸る。
そしてまた始まるカタカタ音――。
「奥山……ほんとに、何があったんだ?」
「――もし、俺が総務部に呼ばれたら……」
「ん?」
「もし、俺が総務部に呼ばれたら、奥山はセクハラについてよく勉強していたって言ってくれるか?」
「……何する気だよ」
「人事課のユミさんに挑もうと思う」
「まじか……よりによって、ソコにいくか……」
「勝つと分かっている試合に興味はない」
「お前……死ぬほど嫌われてなかったっけ……」
「社会的に抹殺されたとしても、行く。ジンバブエ支店に飛ばされようとも、俺はこの想いを伝えるんだ」
キーボードの音が止まる。
沈黙――。
そして、差し出されるネギみそおにぎり。
「ウチにジンバブエ支店はない。安心して査問委員会へ向かえ」
残業は続く――。