ハ
ここからが本編です。
「桜海ー?」
私を呼ぶ声。どうやら同棲中の彼は先に起きていたらしい。
「・・・はーい!!」
私は大きく返事する。
水門桜海。それが私の名である。
かつて起きた戦争、【ラグナロク】の生き残りである私と彼は、恋をし、今では同棲しているのだが、お互いに傷の癒えぬ今は、他人との接触を極力断っている状態にある。
私の家は財閥だったが、戦時の混乱で没落し、それきりだ。
そして彼。路木ハルトは世界を滅ぼす巨人の王【ウートガルザ】の生まれ変わりとして事あるごとに命を狙われていた。
が、戦争が終結して以来、その能力は消失したようだった。
階段を降り、一階にいる彼のもとへ。
「・・・あ、桜海!おはよう。」
「おはよう。」
いつも通りの日常。
「今日でやっと二年になるのかぁ・・・。ああ、ほら、実家から逃げてきて今日で二年だよ!!」
「・・・うん・・・。」
違う。違うのだ。逃げてから、もう四年以上経っているのだ。ましてや、逃げたのは実家からでもない。
私達は【自らの世界】そのものから逃げたのだ。
言ってはいないのだが、彼は一部の記憶を失っている。
それは戦時中の記憶。つまり、もっとも辛い記憶。
彼はその中で、あらゆるものを失った。
信頼、友情、そして愛した女も・・・。
だが、それら大事なものを失った事自体を、彼は覚えていない。
失った事実を失ってしまったのだ。
人間という生物はどうも、受け入れたくない事を忘れる事ができるらしい。
私もそうやって、嫌な事を忘れられたら良いのに・・・。
いや。だめだ。
忘れてしまったら、きっとだめになってしまう。
私が彼のかわりに、全部覚えていよう。
私が彼の、海馬になるのだ。
チカッと、閃光が点滅した感じの何かが、目の前で起こった。
そして、平衡感覚が崩壊していく。
目眩だった。
「・・み・・うみ・・!・・・おうみ!!」
はっとして、眼を開く。
そこにはいつも通りの日常が続いていた。
「ハルト・・・。」
怖かった。このまま日常が壊れるんじゃないか、今まで地道に築き上げてきた彼との平和が、終わってしまうのではと・・・。
「ハルト、怖いよ・・・。」
「・・・大丈夫。俺が居るから・・・!」
だが。
その時私はまだ、何も知らないのだ。
何も知らないままの、幸せな私だった。