03 Cubを継ぐ
カブさんはのんびり走るのが好き。
相棒はホンダ・スーパーカブ90カスタム。
田んぼ道が好きで、田舎が好き。
コーヒーが好き。
独りが好き。
でも、話しをするのも好き。
大勢の中にいると少し疲れる。
人混みは苦手。
忙しいのも苦手。
いつでもノンビリと、あっちへフラフラ、こっちへフラフラしてる。
40歳ちょっとで、現在は独り者。
サラリーマンではなく、自営業とも違う、あえて言うなら自由業。
ちょっと変な大人で、変なヒト。
それが、カブさん。
03 Cubを継ぐ
「あの…」
「はい?」
「これって、どうやってエンジンをかけたら良いんでしょう?」
良く晴れた土曜の午後。
バイクでフラリと散歩に出かけた私は、公園のベンチで缶コーヒーを飲みながらボンヤリとしていた。
眼鏡をかけ、バイクを押した50歳くらいの男性に声をかけられたのは、そんな時だった。
「…それ、あなたのバイクですよね?」
彼の視線の先には私のバイクがあり、申し訳なさそうな顔で自分のバイクと、私と、私のかたわらのバイクを見比べている。
「ええ。90ccの古いカブです」
「え? それもカブなんですか! カブって50ccじゃないんですか?」
私の言葉に男が驚いた顔をする。
黄色いナンバープレートを付けた私のカブは90ccのスーパーカブ90カスタム。少し手を入れてマフラーやタイヤ、シートやサスペンションを替え、象徴的なレッグシールドも取り払ってしまっているが、カブには違いない。
対して男の押してきたバイクは同じくスーパーカブだが、ナンバープレートは白。
「貴方のは50ccですね。…バイク、初めてなんですか?」
「はい。そうなんです。親類が乗れなくなってしまったので私が引き取ったんですが、動かし方が解らなくて」
「なるほど。ま、私もそんなに詳しいって訳じゃないですけど、見てみましょうか?」
「ありがたい。お願いします」
男は丁寧に頭を下げてバイクをその場に停め、スタンドをかけた。
私は立ち上がってそのバイクを確認する。
「うん、一番オーソドックスな50ccのスーパーカブ50デラックスですね」
「はあ、カブにも色々あるんですね」
「ええ。スーパーカブが好きな人達の間では、私のみたいな四角いヘッドライトのタイプよりも、この丸いヘッドライトのカブの方が人気があるんですよ」
「へえ、そうなんですか…」
意外だという顔で男が何度も頷く。
私は車体を揺さぶって燃料が入っているのを確認し、燃料コックの位置がONになっているかを調べた。
「キーはありますか?」
「はい。でもこれを挿して回してもエンジンがかからないんですよね…」
男がキーを取り出しながら首を捻る。
なるほど、本当に全くの初めてなんだな。
「ええ。バイクはクルマと違ってキーを回しただけではエンジンが始動しないようになっているんですよ」
「あ、そうなんですか! 知らなかったとはいえ恥ずかしいな」
「まあ、誰でも初めてだとそんなもんですよ。エンジンをかけるにはコレ…‥この右側のステップの後ろに、ほら、ペダルがたたんであるでしょう」
「本当だ。なんですか、これ?」
「キックペダルっていうんですよ。これでエンジンを始動させるんです」
「へえぇ、そうだったんですか」
「まずこのペダルをこうして出しておいて、バイクにキーを挿して回します。そうするとメーターの上の、この緑色のランプが点灯しますね? で、ブレーキを握ります」
「はい」
「そうしたらこのペダルを足で、踏み下ろします」
トタタン、タタタタタタ…
「おお! かかった!」
「よく手入れしてありますね。何回ペダルを蹴ってもエンジンがかからないなんてこともよくあるんですよ」
「そうなんですか。なかなか手のかかるモノなんですね」
「すぐに慣れますよ。『さぁ、バイクに乗るんだ』っていうのを、手順を踏んで確認しているようなもんですから」
「なるほど」
「さて、あとは乗って走るだけですけど…‥大丈夫ですか?」
エンジンのかけ方から解らなかったヒトだ。ものすごく不安な感じがする。
当の本人も穏やかなエンジン音でリズムを刻むスーパーカブを、この上なく思いつめた目でジッと見つめている。
「どうしたらいいんでしょう?」
…だよねぇ。
「…ええと、失礼ですが、自転車は乗れますか?」
「あ、自転車は乗れます。もちろんクルマの免許も持ってますよ」
「良かった。ちなみにマニュアルミッションのクルマの運転は出来ますか?」
「マ、マニュアルですか?」
男がたじろぐ。まあ、予想通りといえば予想通りだ。
「ええ。まあカブはクルマのマニュアルよりは簡単ですが」
「マニュアルは…‥30年以上前に乗ったきりで…今は運転出来るかどうか…」
「ああ。でも乗ったことがあるのなら大丈夫ですよ。…公道に出る前に少し練習してみましょう」
「はい。あの、申し訳ありません。ご迷惑をおかけしてしまって…」
「良いですよ。このまま貴方が事故にでもあったら、私も寝覚めが悪いし」
「すみません」
男が深々と頭を下げる。なかなか礼儀正しいヒトだ。
「よし。じゃあ一度エンジンを止めて、向こうの駐車場の奥でちょっと乗ってみましょう」
「はい。よろしくお願いします」
私達は駐車場の隅の邪魔にならない場所まで移動し、カブのセンタースタンドを立てた。
「まずは自分でエンジンをかけてみましょう」
「はい」
男は先程教えた手順をいちいち指差し確認しながらキーを挿し、キックペダルを踏み下ろした。
トタタタタ…
「すごい! かかった!」
子供のように喜ぶ。
「上手いじゃないですか。…じゃあ、簡単に説明しましょう。まずはエンジンの音を聞いてみましょうか」
「エンジンの音…‥ですか?」
「ええ。このハンドルの右側のグリップがアクセルです。これを手前に捻るとアクセルが開きます」
「わ、わかりました…」
男が右手のアクセルグリップをグワッと捻る。
ブゥワーンッ!
「わっ!」
思いのほか勇ましいエンジン音がして、驚いた男がアクセルから手を離す。
「ハハハ、なかなか迫力がありましたね。アクセルは力一杯握らず、開く時はジンワリといきましょう。こんな感じで」
私は彼のスーパーカブの隣りで自分のカブのエンジンをかけ、アクセルを開けて見せた。
トタタタタタタタッ
エンジンの鼓動はリズミカルに高まっていく。
「なるほど。こうですね?」
タタタタタタッ
「良いですよ、上手です。…では実際にタイヤを動かしてみましょう。メーターパネルを見てください」
「メーターですか?」
「そうです。スピードメーターの上に緑色のランプが点灯していますね?」
「はい」
「これはギアがニュートラルに入っている時に点灯します。スーパーカブは自動遠心クラッチといってアクセルを開かないとエンジンの動力が伝わらないようになっています。変速は左足のペダルで、前を踏んでシフトアップ、後ろを踏んでシフトダウンです。…じゃあ、1速に入れてみましょうか」
「こうですか?」
男が左のつま先でペダルを踏み込むと、カッと音がして1速にギアが入る。
「アクセルを開けてみてください」
「このまま?」
「ええ。このまま」
トタタタタタ…
「後ろのタイヤを見てみましょう」
「おお! 回ってる!」
センタースタンドをかけたままなのでバイク自体は動かないが、浮いた状態のリアタイヤはその場で回り始める。
「良いですね。では今度はアクセルを戻して、右側のステップの前にあるペダルを踏んでみてください」
男が右足でペダルを恐る恐る踏む。
「あ! 止まった!」
「ええ。右足のペダルはリアブレーキです。ハンドルの右手に付いているのはフロントのブレーキですけど、基本的にはブレーキは右足で操作して、強い制動が必要な時に右手のブレーキを同時に使います」
「はい」
「じゃあ今度は走らせてみましょうか」
「は、はい」
「大丈夫。肩の力を抜いて、今やったことと同じことをするだけですから」
「はい」
お互いにカブのセンタースタンドを解除する。
「さっきやったのと同じようにゆっくりとアクセルを開けてみましょう」
「は、はい」
トタタタタ…
「う、動いた! 動きましたよ!」
「ええ。良いスタートです。さあ、視線を上げて遠くを見てください」
「はい。お、おお…‥おおおっ!」
男が声を挙げる。
私はその後ろをゆっくりと自分のカブで追走しながら見守った。
「すごい! これがバイクですか!」
「気持ち良いでしょう?」
「はい! すごく!」
男は時速10kmほどのスピードで駐車場の隅をグルグルと回り続けた。
その後、ギアチェンジの仕方や公道を走る時に気を付けなければいけないことを説明し、一休みする。
「すみません。本当にありがとうございます。すっかりお世話になってしまって…」
「気にしなくて良いですよ。あまりにも楽しそうだったので、私もなんだか懐かしい気分になりました」
50ccと90ccのスーパーカブが並ぶ前で、缶コーヒーを片手にいい歳の大人が2人、屈託ない笑顔でバイクを眺める。
やがて、50ccのカブを眺めていた男が深々と頭を下げた。
「ありがとうございます…‥このスーパーカブ、先週病気で亡くなった父のものなんです」
「お父さんの…‥」
私はそう返してから後の言葉をどう繋いでいいものか詰まってしまった。
男はそれを気にする風でもなく、また自分のカブに視線を戻す。
「80歳を過ぎているというのに、毎日のようにこのカブに乗ってあちこちを走り回っていました。それはもう、とても楽しそうに出かけていくんです。やっと…‥あの笑顔の理由が解った気がします」
「そうでしたか…」
「バイクってこんなにも楽しいものだったんですね。私は最後まで父に反対して、バイクに乗るのを辞めろ辞めろと言ってばかりでした」
「心配だったんですね」
私の言葉に男は首を横に振る。
「解りません。世間体を気にしてばかりいましたし、バイクについても危ないものだという認識しかありませんでしたから」
「…‥」
まあ、バイクに関してはこれが一般的な解釈なんだろうな。
「でも、自分で乗ってみて少しだけ父の気持ちが解ったような気がしています」
そう言うと男はしみじみとスーパーカブを眺める。
私はその言葉に少し引っかかるものを感じた。何がという訳でもないが、これだけで親父さんの気持ちを解った気になられることに何か反発するものが湧いたのだ。
そう感じた時にはもう口を開いていた。
「…‥まだお父さんの気持ちが解ったと言うのは早過ぎじゃないですかね」
「え?」
男が驚いた顔でこちらを見る。
「まだ貴方はお父さんの目にしていた景色を見た訳じゃありませんよ。言ってみれば、お父さんが履いていた靴にちょっと足を突っ込んでみた程度のもんです」
「…‥」
「お父さんが感じていたモノを貴方も感じてみませんか?」
「父が感じていたモノ…‥ですか?」
男が不思議そうな顔をする。
私は構わず続けた。
「ええ。こんな狭い駐車場の中じゃなくて、お父さんの感じていた世界を知りに行くんです」
「世界…」
男はその言葉に「大袈裟な」と驚いた顔をする。
私は立ち上がり、鍵穴にキーを挿した。
「大袈裟なもんですか! 走ればきっと私が使った言葉の意味が解りますよ」
「そう…でしょうか?」
「保証します」
私は自分でも何故そこまでと思いながらも、大きく頷いた。
走り始めると、私はこの辺りでは1番見晴らしの良い、小高い丘の上の公園に向けて進路をとった。
この辺りでバイクに乗っていたのなら、一度はそこへ行っていると考えたからだ。
バックミラーの中のぎこちない運転者を確認しながら、先導するように前を走る。
住宅街を抜け、公園へ続く一本道に入った。
丘の上へ続く坂道は緩やかで、非力な50ccのカブでものんびり登っていける。
「ここから先は貴方が前を走るんです。視線を上げて、しっかり前を見て」
「は、はい」
私はスピードを落とし、男の後ろに下がった。
「慌てなくていいですから、自分なりのスピードで走ってください」
「はい!」
スピードメーターの針はかろうじて30kmくらい。
コーナーにさしかかると大きく減速するが、転倒や事故の心配は無さそうだ。
張り出した木々の枝の下を走っていき、やがて視界が開ける。
「おお!」
目の前に雲一つ無い青空が広がった。
「すごい!」
男の声が明らかに弾んでいる。
目的地も見えてきた。
減速し、ゆっくりと公園の駐車場に入る。
私達は並んでバイクを停め、ヘルメットを脱いだ。
「どうです? お父さんと同じ世界が感じられましたか?」
「世界だなんて…‥大袈裟だと思っていました。でも、初めは後ろに飛んでいく景色に目をやる余裕も無かったんですが、真っ青な空が見えてからは…‥貴方の言っていた通りだと思いました」
「…‥」
「いつも見ているのとは違う世界が感じられたんです。後ろに向かって流れる景色も、体に当たる風も、これが父の感じていた世界なんですね」
私は男の言葉に笑顔で頷いた。
「バイクは不思議な乗り物です。機械単体では立っていることも出来ないのに、跨って走り出すといつも以上に世界と強く繋がれる。ハッキリと世界を感じられるんです。それはこの小さなバイクでも、1000ccを越える大型バイクでも同じです」
「はい」
「お父さんはきっと、この乗り物に乗って感じる世界が好きだったんでしょうね。歳をとっても離れられない、多分私もそうだろうから」
「はい。ありがとうございます…‥えーと、あれ? そういえばまだお互いにお名前を聞いていませんね。私は相馬高志と申します」
「あれっ、本当だ。私は日下部、日下部空、仲間からは日下部の下2文字をとって『カブさん』と呼ばれています」
「カブさんですか! これは良い、このバイクのことを教えてもらうのにピッタリの人だ。……いや、色々と教えていただきながら申し訳ありません」
「いえ、私こそ色々とお節介をやいてしまいました」
「とんでもない。貴方のおかげで父のことを知ることが出来ました。…私も、この小さなバイクに乗り続けてみようと思います」
「きっと喜んでますよ、お父さんも」
「だと良いんですが、頑固な人でしたからね」
顔を見合わせ、2人して声をあげて笑った。
今日初めて会った者同士、そして会ったことすらない故人、その間をバイクが繋いでくれている。
本当に不思議な乗り物だ。
もう私も、この男もきっとこのバイクという乗り物から離れられないだろう。
「さてカブさん、戻りましょうか。下りはもっと面白そうですね」
「はは、安全運転でお願いしますよ。50ccの制限速度は時速30kmですからね」
「ははははは」
午後の公園に笑い声が響いた。
どうやらまた1人、バイク乗りが生まれたようだ。
『HONDA・SUPER CUB』
1958年に生産を開始し、細かな仕様変更をおこないつつも、現在までその基本コンセプトを変えることなく生産が続けられている、本田技研工業の傑作機。
その優れた耐久性と経済性から世界各国で販売され、単一シリーズの輸送用機器としては世界最多量産・最多販売台数を誇る。
空冷4ストローク単気筒のエンジン、自動遠心クラッチやロータリー式変速機、直接応力のかからないレッグシールドやカバーなどのパーツを大型プラスチック素材にするなど、発売当時では画期的だった独自のアイディアが盛り込まれ、大手・中堅メーカーも相次いでスーパーカブ「もどき」を製造販売したほど、極めて完成度の高い製品であった。
簡潔で軽量かつ堅牢な全体構造、強力なエンジンと扱いやすい変速機の組み合わせを持つスーパーカブは、生産から50年以上経つ最初期モデルであっても、充分に整備さえされていれば、現在の都市交通の流れにも対応でき、業務用に使用しても何ら支障の無い水準の性能を持っている。