02 寄り道はタイヤ交換
カブさんはのんびり走るのが好き。
相棒はホンダ・スーパーカブ90カスタム。
田んぼ道が好きで、田舎が好き。
コーヒーが好き。
独りが好き。
でも、話しをするのも好き。
大勢の中にいると少し疲れる。
人混みは苦手。
忙しいのも苦手。
いつでもノンビリと、あっちへフラフラ、こっちへフラフラしてる。
40歳ちょっとで、現在は独り者。
サラリーマンではなく、自営業とも違う、あえて言うなら自由業。
ちょっと変な大人で、変なヒト。
それが、カブさん。
02 寄り道はタイヤ交換
良いお天気だった。
3月も後半になって陽射しが暖かい。すれ違うライダーも増えた。
ただ、そんなライダー達はみな最新の大型バイクで、低音を響かせながら走っていく。
こちらは90ccの古い小さなバイク。
足の間では大型バイクと比べるとオモチャのように小さな単気筒エンジンが、トコトコと穏やかなリズムを刻んでいる。
別に気にする必要も無いのだが、スピードの出ない小さなバイクで走っていると、後ろから来る大きなバイク達に申し訳ない気がしてきてしまう。
ピッコ、ピッコ、ピッコ…
ウィンカーを出して幹線道路を一本外れ、旧道に入った。
すれ違うクルマもバイクもいなくなる。
実は、整備の行き届いた幹線道路よりも、こんな生活道路の方が好きだった。
のんびりと、北関東の少し懐かしい風景を見ながら、さびれた雰囲気が漂う道を走る。
「?」
前方の路肩に赤い小さなクルマが止まっていた。
周りの雰囲気から浮き上がったような鮮やかな色が目をひく。
近づいていくと車種が解った。
1990年代に流行った軽自動車のオープンカー、ホンダのビートだ。
幌を開いてオープンにした小さな車体の脇に、若い男女がしゃがんでタイヤを覗き込んでいる。
私はスピードを落としながら軽自動車の脇を通り過ぎ、少し先でバイクを停めた。
バイクを降りてヘルメットを脱ぐ。
「どうしました?」
声をかけると、驚いたように男女がこちらを見て立ち上がる。
若いどころか、まだ20歳になるかならないか、免許を取ったばかりのような男の子と女の子だった。
「パンクかな?」
私も軽く首を傾げてタイヤを見る。
「さっきまで気がつかなかったんですけど、後ろの方で変な音がするような気がして…‥、降りて見たらこんな状態になってたんです」
タイヤは空気が抜けてペチャンコになっていた。
男の子が困ったなという感じで頭を掻く。
女の子は不安そうな顔だ。
「父の車を貸してもらったんですけど、どうしたらいいか解らなくて…」
ビートの販売終了から数えるともう20年近くが経つ。
塗装がきれいなので、たぶんオーナーが塗装し直したのだろう。
車内の装備も純正のファブリックシートから革張りのシートに変えてあり、ステアリングやシフトノブもナルディ社の木製のものに変えてあった。
趣味の良いオーナーだ。
「見せてもらってもいいかな?」
私が言うと男の子はどうぞと一歩下がってその場を譲った。
潰れているのは右のリアタイヤだ。
私はタイヤの隣りに膝をつき、タイヤハウスの中を覗き込む。
足回りにダメージはなさそうだ。
タイヤから空気は抜けてしまったが、そのまま走らずに止まったのが良かった。
立ち上がり、他のタイヤも順番に確認してみる。
「車、好きなのかい?」
タイヤを見ながら聞いてみると、男の子は「え?」という顔を一瞬してから
「どうしてですか?」
と素直に疑問を口にした。
「今時マニュアルミッションの運転免許を持ってる若い子はそんなに多くないからね。私のようなオジサンが免許をとったの時代は、男ならみんなマニュアル免許だったもんだけど」
「父がマニュアル免許をとるなら教習所代を出してくれるって言ったんで…‥車は嫌いじゃないですけど」
照れくさそうに後ろ頭を掻く。
「なるほど」
他のタイヤは問題ない。
私は運転席の足元を覗き込んでレバーを引いた。
軽い音と共に、小さなボンネットのフロントガラス側が少し持ち上がる。隙間に手を入れ、フロント方向に引き上げた。
「なにそれ?」
それまで少し後ろで私と男の子のやり取りを見ていた女の子が驚いた声を上げた。
「ねえ、コウちゃん、このオジサン大丈夫なの? 車壊しちゃうんじゃないの?」
「アヤちゃん、大丈夫だよ。このヒト、ウチの父さんと同じ感じがするもん」
父さんか…‥私もこれくらい大きな歳の子供がいてもおかしくない年齢だものな。
「ええと、アヤちゃんでいいのかな? オジサンも若い頃にこのクルマに乗ってたんだ。作られてからもうずいぶん経つのに、こんなにキレイにしているクルマを壊したりはしないよ。信用してくれると嬉しいな」
「でも、ウチのパパの車は、エンジンが入ってるところのフタは前のライトの方から開いたわよ。オジサン本当に大丈夫なの?」
大人しくしていたが、どうやら案外、気の強い娘のようだ。
コウちゃんと呼ばれた男の子の方は隣りでオロオロしている。
「大丈夫。この車のボンネットはフロントガラス側から前に向かって開くようになってるんだよ。最近ではあまり見かけない形だけれど、昔のイタリアのスポーツカーなんかはこういう風だったんだ」
アヤちゃんはなんだか不服そうな顔をして腕組みをしていたが、隣りのコウちゃんが「アッ!」と声を上げると、驚いたように彼の視線の先を見た。
「タイヤだ…」
このビートという車は、軽自動車でありながらエンジンレイアウトがミッドシップ、つまりボンネットの中ではなく運転席の後ろにエンジンが置かれている。
そして、普通ならエンジンが納まっているボンネットの中にはスペアタイヤが載せてあった。
私はふぅと軽く安堵の息を吐く。
「良かった。スペアタイヤを外して収納ボックスを付けちゃう人もいるんだけど、ちゃんと載せておいてくれた」
ここまでキレイにして状態を保っているオーナーだから、スペアタイヤも外したりしないだろうと思ったが、やはり予想通りだ。
驚いたままの2人を尻目に、私はスペアタイヤやジャッキを取り出す。
左のフロントタイヤの前に路肩から大き目の石を持ってきてクルマ止めの代わりに置き、右のリアにジャッキをかませた。
「…あ、僕がやります」
「大丈夫、やり方だけ見ているといいよ。その格好じゃ真っ黒になってしまうから」
コウちゃんは今時の若者らしいオシャレな格好だった。
私のようなくたびれたジャケットにジーンズという服装とは違う。
「すいません、なにからなにまで…」
素直に頭を下げる彼に笑って頷いてから、タイヤ交換作業を始める。
「懐かしいな、私も出先で一度パンクをしてタイヤ交換をしたことがあるよ。その時はフロントタイヤだったから後の運転も大変だった」
「前のタイヤだと大変なんですか?」
「同じタイヤじゃないの?」
若い2人がそれぞれ疑問を口にする。
「この車は前後でタイヤの大きさが違うんだ。スペアタイヤは後輪と同じサイズなんだよ」
「前後で大きさが違うんですか?」
車載工具のレンチで、ホイールナットをなめてしまわないように、注意しながらパンクしたタイヤを外す。
「フロントは13インチ、リアは14インチのタイヤなんだ。後ろのタイヤのほうが大きいんだね」
「なんで?」
女の子は物怖じしないもんだな…
「このクルマは運転席の後ろにエンジンが積んであってね、走る時に動くのも後ろのタイヤなんだ。重い後ろ側を安定させる為に少し大きいタイヤをつけたんじゃないかな」
「ふーん」
「まあ、専門的な理由はちゃんとあると思うけど、今、重要なのはスペアタイヤをつけるのが同じサイズの後輪だってことなんだ」
「どうして?」
「前のタイヤだと左右で大きさが違っちゃうからね。片側に大きいタイヤをつけたらクルマはどうなると思う?」
スペアタイヤをはめながら2人に聞く。
答えたのは男の子の方だった。
「…あ、真っ直ぐ走らない!」
女の子が「あぁー」という顔をする。
「そのとおり、常にハンドルで進行方向を修正しながら走らなきゃならないし、曲がる時も違和感が強かったな」
「そうか…、考えてもみなかった…」
星を描く順番でホイルナットを締めていき、最後にジャッキを外して締め付けの緩いナットがないか確認する。
「よし、これでいいだろう」
鮮やかな赤い車体に、右の後ろ側だけ工事現場の安全ヘルメットのような黄色いホイールがついた。
「少しかっこ悪いけど、これで走れるから大丈夫。でも、スピードは出し過ぎないようにね、あくまでも応急タイヤだから」
パンクしたタイヤをフロントのスペースに積み、工具とジャッキもしまって左前に置いた石をどける。
「あの、ありがとうございました。僕、柿崎晃司って言います。彼女は水無月彩音。本当に助かりました」
コウちゃんとアヤちゃんは並んで頭を下げる。
私は頭を上げなよと笑い、
「気にすることは無いさ、私は日下部空。たぶん君のお父さんと同じくらいの歳かな。君達とそのクルマを見てたら、なんだか懐かしくなったから手伝っただけだよ」
「でも、なにかお礼を…」
親の育て方が良いのかな、とても素直な子だ。
「そうだな…‥このクルマ、好きかい?」
「え? はい、小さくてマニュアルだからちょっと面倒ですけど、でも…‥好きです」
コウちゃんはバイクのようなメーターパネルがついたビートの運転席を見ながら答えた。
「狭くて乗りにくいけど、私もこのクルマ好きだよ。キレイな色だし」
アヤちゃんも小さな赤い車体を眺めながら答える。
「うん。なら良い」
「「はい?」」
2人が不思議そうな顔をする。
私も懐かしい空気をまとう真っ赤なオープン2シーターに目をやった。
「こいつの幌を開けて走ってると空が見えるだろう?」
「はい」「うん」
2人が同時に頷く。
私も頷いた。
「それがすごく気持ち良いんだ。私はそれが大好きだった。きっと君のお父さんも同じ気持ちだろう」
「僕も、それは気に入ってます!」
「私も!」
私はゆっくりと自分のバイクの方に歩き出す。
「それで良いんじゃないかな。この車を楽しめるドライバーは良い旅が出来るよ」
「旅が? ‥あの、日下部さんはもうビートには乗らないんですか?」
コウちゃんが私の背中に問いかける。
「今の私にも、良い相棒がいるからね」
「?」
私はヘルメットをかぶり、グローブをはめてバイクに跨った。
スタートボタンを押す。
軽やかな鼓動音と共に90ccの小さな相棒、スーパーカブ90が目を覚ます。
「良い旅を!」
そう言ってアクセルを開いた。
バックミラーの中で若い2人と真っ赤なオープン2シーターが小さくなっていく。
空は相変わらず良い天気だ。
ちょっと変わった寄り道が、懐かしい記憶を甦らせる。
頭上には真っ青な空。
バイクにもビートにも最高の1日だ。
春の陽はまだ高い。
『HONDA・BEAT(型式 E-PP1)』
1991年から1996年にわたって本田技研工業から発売された、オープン2シーターの軽自動車。
直列3気筒SOHCの656ccエンジンをミッドシップレイアウトで搭載し、4輪ディスクブレーキや4輪独立懸架のストラット式サスペンションなど当時の軽自動車としては世界初となるパッケージがほどこされた。
自然吸気のエンジンはレットゾーンを8,500回転から刻む高回転型で、当時の自主規制に達する64馬力を発生した。
トランスミッションは、シフトストロークの短い5速マニュアルのみで、オートマチックの設定は無し。
総生産台数は33,892台。
2015年に後継車としてS660が発売され、人気を集めている。