15 旅
カブさん。
年齢は40代前半。男性。現在は独身。
サラリーマンではなく、自営業とも違う、あえて言うなら自由業。
相棒はホンダ・スーパーカブ90カスタム。
のんびり走るのが好き。
田んぼ道が好き。
田舎が好き。
コーヒーが好き。
独りが好き。
話しをするのも好き。
大勢の中にいると少し疲れる。
人混みは苦手。
忙しいのも苦手。
いつでもノンビリと、あっちへフラフラ、こっちへフラフラしてる。
ちょっと変な大人。
変なヒト。
それがカブさん。
15 旅
「すみません、火を貸してもらえませんか?」
夕暮れ時、栃木県の山奥にある小さなキャンプ場でそう私に声をかけてきたのは、まだ高校生くらいの男の子だった。
キャンプに来て火が無い不便さはかなりのものだろう。私はポケットから使い捨ての100円ライターを取り出し、彼に渡した。
「ありがとうございます。すぐにお返ししますね」
「いや、返さなくても良いよ。無いと不便だろう? 私は他にもライターを持っているから」
タバコと一緒に古いジッポを見せる。
「ああ」と彼は納得して深々と頭を下げた。
「すみません。使わせていただきます」
申し訳なさそうな彼に、私は「気にしなくて良いよ」と手を振り、タバコをくわえながら食事の支度にかかる。
彼も自分のテントに戻って食事の準備にとりかかったようだ。
7月の初め、夏休みもまだ始まっておらず、平日のキャンプ場は人もまばらだった。
私は来る途中に買ったソーセージを焼き、缶ビールのプルトップを開け、チーズをつまむ。
陽の落ちかけた山の中は暑さも一段落し、ビールを飲んでいると体の内側から冷えてくるような気がしてくる。
こりゃあ…‥早々にウイスキーに変えた方が良いかな。
缶ビールを呷りながら、焼きあがったソーセージをかじる。
美味い。
悩みを忘れてしまいそうなほど、ジュワッと溢れ出る肉汁がビールにピッタリだった。
「…何やってんだかな」
溜息とともに呟く。
ヤマの店で昔を懐かしんだあの朝から、私は奇妙な感覚に捕らわれていた。
停滞感。
風も無く、見渡す限り陸も見えない海の真っ只中で、どこにも行くことの出来ない船に乗っているような、そんな感覚。
意図して同じ場所に留まっているのならいいが、そうではない。
進もうにもどこへ向かうべきか、どう進めば良いのか、漠然とし過ぎていて、帆を掲げたまま行動を起こすことができないのだ。
俺は、これからどうしたいんだ?
長い時間をかけて、ようやく自然に笑えるようになったユキの横顔を見て、私は自分のあるべき姿を想像することができず、うろたえた。
「ちょっと留守にする」
「仕事か?」
「いや…‥探し物…かな?」
「そうか」
ヤマの店に立ち寄って留守にすることを告げた時、親友は多くを訊かずにバイクを隅々まで整備して、私を送り出してくれた。
当てがあった訳ではない。
ただ、日常を離れて少し考えたかったのだ。
「…‥」
ビールが無くなった。
マグカップにウイスキーを注ぎ、ミネラルウォーターで割る。
ストレートでも良かったのだが、酔うよりも考えることを続けたかった。
「あの…‥良かったら召し上がりませんか?」
急にかけられた遠慮がちな声に少し驚いて顔を上げる。そこには、先ほどの彼がフライパンを片手に立っていた。
「お邪魔でしたか?」
ちょっとボンヤリしていたせいか、すぐに言葉を返せなかった。
彼が不安げな表情になる。
フライパンにはギョウザが載っていた。
「ああ…いや、ゴメン。良いのかい? ご馳走になっても」
「ええ。晩ご飯が作れたのはあなたのおかげですから」
私の返答にようやく表情を緩めた彼は、笑いながら後ろ頭を掻く。
「気にしなくて良かったんだけどな。…でも、美味しそうだね。良かったらコレも一緒に食べないか?」
私も焼けたばかりのソーセージを指差す。
「いや、でも…‥いいんですか?」
彼はやはり遠慮がちにこちらを見る。
「1人も良いけど、知らない者同士、偶然で食事を共にするっていうのも面白いもんだよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
私達はお互いの食事を持ち寄って、夕食を共にすることにした。
須藤恭一と名乗った彼は栃木市の高校2年生で、思うところがあって1人で自転車にテントを積んでキャンプに来たという。学校は試験休みなのだそうだ。
「…じゃあ、日下部さんは東京からバイクで?」
「ああ。ま、バイクといってもスーパーカブだからカッコつかないけどね」
「そんなことないですよ。僕なんか自転車ですもん」
「いや、自転車で山道を登ってくる方がよっぽど凄いじゃないか」
「はは、ちょっと甘かったです。こんなに大変だとは思いませんでした」
人懐っこく、しかしいまどきの高校生にしては礼儀正しい子だった。
私達はお互いのフライパンの上の料理をつつきあいながら、水割りとペットボトルのコーラを飲み、とりとめのない話をした。
「真面目だな、恭一君は」
「そうですか?」
「俺が君くらいの頃には間違いなくそのコーラにはウイスキーが入ってたよ。タバコもやってたかな」
「不良だったんですか?」
「不良ってほどでもなかったけど、バイクはその頃から乗ってたな」
オジサンの昔話だ。それから、自転車でここまで来るのがどれだけ大変だったかといった話や料理の話、キャンプの話など本当にとりとめのないことを話した。
陽が落ち、ランタンと蚊取り線香をつけ、マグカップにウイスキーを注ぎ足す。
「日下部さん、僕も少しウイスキーを貰ってもいいですか?」
自分のカップを持ってきた恭一君が遠慮がちに訊いてくる。
「無理することないよ。酒なんて大人になれば嫌でも飲む機会がくる」
ちょっと驚いてから私はそう答えたが、
「いや、大人ってどんな気分なんだろうって思って」
そこには年齢相応の、好奇心旺盛な少年の姿があった。
「なるほど。じゃ、少しだけ飲んでみるか」
コーラで割るといいよと、彼のカップに少しだけウイスキーを入れてやる
ちょっと温いコークハイをおっかなびっくり飲む17歳。
「どう?」
「うーん、よく解らないですね。なんか胸の辺りが熱い感じがするくらいかな」
「少しずつ飲んでみるといい。一気に飲むと気持ち悪くなるからね」
「はい」
なんだか、くすぐったいような感覚だった。
未成年にアルコールを勧めるのが良くないのは解っているが、私自身この年の頃には酒もタバコもやっていたので、説教じみたことは言えない。
でも、父親ってこんな気分なんだろうか。
悩み多き17歳の少年はそんな私の気も知らずにコークハイを飲んでいる。
「…ねえ日下部さん、どうして女の子ってあんなに自分勝手なんですかね?」
「また急だね、なにかあったのかい?」
突然変った話題にちょっと驚きながら訊き返す。
恭一少年はカップの中の泡をじぃっと見つめながら、静かに口を開いた。
「幼馴染みっていうか、小学校にあがる前からずっと一緒の子がいるんです。その子が相談があるって言うから訊いてみたら、僕と同じクラスのヤツのことが好きなんだけど、どうしたらいいか解らないから何とかしてくれって言うんです」
「それは困ったな。何とかしてあげるのかい?」
「力になってあげたいとは思うんです。ただ…」
「ただ?」
言い澱む17歳。
カップから視線を上げ、困った顔で私の眼を見てからまた下を向き、ポツリと言葉を発した。
「どうやら、僕は彼女のことが好きみたいなんです」
私は、うなだれた彼の姿に目をやり、カップの水割りを一口飲んだ。
「…‥難題だな」
彼は俯いたまま、小さく頷く。
「そうなんです。僕は彼女のために何かしてあげたい。でも、僕以外の誰かと彼女が特別な関係になるなんて考えると、頭の中がグチャグチャになっちゃって」
甘酸っぱい。
私にもこんな純粋な頃があっただろうか。
「…それは、誰でも同じさ」
私の言葉に、少年が顔を上げる。
「大人でも?」
「40歳を過ぎたオジサンでもさ」
おどけた様に肩を竦める私に、溜息をつく少年。
「そうなんですか…‥僕はどうしたらいいんだろう」
そんな彼を見ながら、私はポケットからタバコを取り出し、火をつけた。
「恭一君…‥ホントはもう答えは出てるんだろ?」
「え?」
少年は、タバコの煙と一緒に私の口から出た言葉に驚く。構わず、私は続けた。
「君がその子の為に頭がグチャグチャになるほど悩んでいるのは、本気だからじゃないか。君にとってその子はそれくらい大切な存在なんだろ?」
「…はい」
「君が本気なら、その子の気持ちに優しい振りをするだけじゃ、きっと後悔することになるぞ」
「そうでしょうか?」
「きっと…‥としか言えない。でもね、伝わるもんなんだよ。自分の気持ちを棚上げしちゃってるとさ」
くわえたタバコの先が赤く光り、溜息のように煙を吐き出す。
その煙の流れていく先を目で追いながら、
「…‥日下部さん、どうしてこんな何も無いところに来ようと思ったんですか?」
少年がポツリと疑問を口にした。
「今度も急だな」
タバコを消す。また水割りを口にすると、少年もつられる様にコークハイを口に運ぶ。
「すみません、なんとなく不思議に思って」
申し訳なさそうに頭を下げる。
いいさ、と私は手を振り、言葉を続けた。
「俺も、君と同じさ。自分が、どうしたいのか確認しに来たんだ」
「確認…‥ですか?」
私の言葉を繰り返すように呟いて、少年は次の言葉を待つ。
ゆっくりと、頭の奥の方から引っ張り出すように、私は言葉を選んだ。
「…ああ。どうするべきなのか、頭では解ってるんだ。ただ、それがちゃんと自分の本当の気持ちなのか、考える時間が欲しかった」
「自分の…気持ち?」
「そう、どんなことでも最後の最後に大事なのは気持ちの部分だよ。途中で投げ出さないでいられるかもそこにかかってくる」
「投げ出したくなるようなことがあったんですか?」
意外そうな顔を見せる17歳に、私はもう一度肩を竦めて見せる。
「大人になるといろいろあってね、大事なヒトのことなのに複雑に考えちまうもんなのさ」
「…日下部さんも、なんか大変なんですね」
「君もな」
呟くように答えを返し、お互いに苦笑してカップの酒を呷った。
「…ああ、今日は月がキレイだな。気が付かなかった」
「そうですね、そんな余裕も無かったんですね」
ふと、何か重い物が肩の上から消えて無くなったような気がした。
4月の終わり、新緑の中を歩いていくユキの背中が甦る。
「あなたは今のままで良いの。…ううん、今のあなたが良いわ」
俺は、俺以外の何者かにはなれない。
それを認めるのが怖かっただけじゃないのか?
「…俺は、臆病なんだ。人と深く関わるのも苦手だし、自分以外の誰かの為に犠牲になれる程の度胸も無い。…‥それでも、アイツの為になら自分を変えられると思いたかった」
「僕も、一緒かな…」
「そうかな? こうして初めて会った知らないオジサンと初めてのお酒まで飲んでるじゃないか」
人と関わるのが苦手な人間は、初対面でいきなりこんな風に一緒に食事をしたり、酒を飲んだりは出来ない。
しかし、恭一少年は後ろ頭を掻きながら、
「なんか、似てる気がして」
と呟いた。
「?」
「思ったんです。ボンヤリとテントを組んでる日下部さんの姿が、自分のことを見てるみたいだって。それで…」
「じゃあ、火を貸してほしいってのは…」
「それは本当です。コンロの調子が悪くって、ガスは出るんですけど着火できなかったもんで」
「そうか」
「ホント、助かりました。それで、この人なら話しが出来るかなって」
「はは、どっちが大人だかわかんないな」
また2人で苦笑する。
「それで、臆病な日下部さんはこれからどうするんですか?」
「俺は…‥俺以外の誰にもなれない。でも、変らなくてもいい。今の自分のまま、自分の気持ちに正直に、自分の出来る限りのことをやろうと思う」
「今の自分のまま、自分の気持ちに正直に、自分の出来る限りのこと…」
「辛い目にあった時に上手に支えてやれなかった不器用な俺を、それでもいいと言ってくれたヒトがいるんだ。そのヒトは辛いことを乗り越えてようやく前に進もうとしている。今の俺にどんなことが出来るか解らないけれど、俺は今の自分に出来ることをやっていこうと思う」
「今の自分に出来ること…‥かぁ」
自分を見失って、どうすることも出来ないような気になっていたけれど、そうじゃなかった。
俺のいるのは海の上でも、船の上でもない。
いつだって、俺は道の上に立っていたんだ。
どこにも行けないんじゃない、踏み出す一歩が怖かっただけだ。
「僕も、正直な気持ちを彼女に話してみます」
「道の先は下り坂かもしれないぞ」
「後悔するかもしれないけれど、嘘をつくよりは良いと思うんです」
「そうかもな。いや、君の道を彼女が一緒に歩いてくれることを祈ってるよ」
「ありがとうございます」
晴れやかな笑顔だった。
彼は私の人生の半分も生きていない。道の先はまだまだ遥か遠くまで続くし、そこには困難が待つかもしれない。
それでも、決意した者の表情は凛々しかった。
「もう一杯いるかい?」
「いただきます。どう言ったら貰えるか悩んでたんですよ」
月とランタンの明かりの下、蚊取り線香の煙が漂い、親子ほども年の離れた2人がウイスキーを傾ける。
探し物はなんとか見つかった。
私の前にも道はのびている。
「日下部さん、お酒が飲めるっていいもんですね」
「一応言っとくが、お酒は20歳になってからだぞ」
『ははははは』
2人の笑い声が夜の小さなキャンプ場に響く。
進む先は決まった。
今日は良い夜だ。
『ソーセージsausage』
ソーセージもしくはヴルスト(英語: sausage,ドイツ語: Wurst)とは、鳥獣類の挽肉などを塩や香辛料で調味し動物の腸等に詰めた食品である。ボイルやスモークなどの処理を行って保存食とされることも多く、中に詰める肉の粗さ、肉と脂肪との比率、血液、シーズニングなど地域によって様々な種類が存在し、さらに保存方法も多岐に分かれる。
日本においては、製造後数日で調理して食べることを想定したソーセージは生ソーセージ、製造過程で加熱しそのまま食べられるものは調理済みソーセージと呼ばれる。また、魚肉をソーセージと似た形状に加工・包装した食品も販売されており、これを魚肉ソーセージというが、単にソーセージと呼ぶ場合もある。