乙女心、揺れる。
変態警報のサイレンがレンガ造りの街並みの中を狂ったように鳴り響く。
あのメイドロリィタの乙女は言った。
下劣男によって騙され傷心の乙女が続出し、全く手が足りない状況なのだと。
同時期に変態が出現し、下劣男を追跡することもできずに帝都中をかけずり回っているのだ。
気がつけば、友禅は麗子の身に着けていた紫のリボンを手に、疋田屋に帰ってきていた。
あのいつでも強き麗子の縦ロールが弛んだ弱々しい姿に、衝撃を受けていた。
麗子の淡い思いを踏みにじった下劣男への怒りが轟々と胸中を荒れ狂う。
だが、どうすればいい。
友禅はすでにただの娘でしかない。
破られた振り袖ですら処分して、身にまとえる正装などないのだ。
正装をまとわぬ友禅は、少々護身術が使える程度のただの娘でしかない。
戦乙女ですら毒牙にかけられる変態であれば、野暮天ウイルスの侵食度は最高位に達しているだろう。
全盛の友禅でも立ち向かえるだろうかと言う程の化け物なのは間違いない。
「どう、すれば……」
悔しさと情けなさに無念の渦に沈もうとしていた友禅が、疋田屋ののれんをくぐったとき。
声をかけられた。
「そこの娘さん。晴れ着が入り用かい?」
疋田屋の店中に座していたのは、部屋にこもっていたはずの守貞であった。
両目の下に黒々とした隈を飼い、むさ苦しい無精ひげを生やす守貞は、唖然と立ち尽くす友禅に、傍らにおいてあった三つのたとう紙の一つを広げてみせる。
ふわり、と畳の上に広がるは、暗がりでも鮮やかな、真白き着物。
袖がやや短くなっており、襟や肩口に新たな刺繍と染め付けが施されているが、赤々とした牡丹の咲き乱れるそれは紛れもなく、母から受け継いだ振り袖であった。
「守貞、捨てていなかったのか……」
「あたり前だ。着物をなんだと思っていやがる。
晴れ着にしたら、常着へ、それが終われば寝間着に、仕舞いにはおしめに雑巾、すり切れるまで徹底的に使うのが着物だぜ。ましてや、たかが袖がちょいと切られた程度で捨てるなんざもったいねえ」
ふん、と言いきった守貞は、愛おしげに白き衣をなでた。
「ましてやこいつは大事に大事に着られ続けた振り袖だ。多少生地は傷んでいるが、洗い張りすればぴっかぴかの新品同然。まあ、ちょいと仕立て直すのに柄行きの調整が必要だったが、そこは俺の腕の見せ所。今回の着こなしにあわせて今風の模様も取り入れて、かわいい中振り袖に生まれ変わったぜ」
その横には、今まで振り袖に合わせていた帯とは別の、乙女な桃色の中に、今風の鮮やかな紫の蝶が舞う細帯が出番を待っている。
その守貞の気遣いに涙がでそうになった友禅は、首を横に振らねばならないことが苦しかった。
「だが守貞。それではだめだ。振り袖はその長い振りの可憐さで、重い、苦しい、動きにくいの三重苦を補っていた。
ゆえに袖を短くして、帯を軽くしたところで、動きにくさが解消されるわけではなく、振り袖の可憐さを上回ることなどできないのだよ。
ましてや、今回の相手は何人もの戦乙女を手玉に取った強敵。
ロリィタワンピースのように動きやすく、振り袖以上に私をときめかせ、輝かせる衣装でなければ勝つことは難しい」
確かに、その中振り袖の白と細帯の桃色の鮮やかさに、友禅の鼓動は甘く跳ねた。
だが、足りない。
この程度のときめきでは、サイズの合わないロリィタワンピースと同じである。
唇をかみしめる友禅に、守貞は無言でもう一つのたとう紙を広げその中身を出した。
「こいつを一から試作して、おまえが一番可憐に見える寸法を割り出すのに4日もかかったぜ」
「なんだ、これは……」
それは、友禅も初めて見る和服だった。
いや和服、と言っていいのだろうか。
形としては、男子の着物である馬乗り袴に近い。
だが、その深き臙脂色の布で仕立てられた袴には馬乗りと呼ばれる股はなく、襞が寄せられたそれは、洋装で言うプリーツスカートのようだった。
さらに、その裾には着物と合わせたのであろう、美しき牡丹の刺繍があしらわれ、可憐さの中にも大人びた風情を醸し出していた。
どのように着るかわからない。わからないが、
「かわいい……」
自然と、その言葉が口を衝いた。
思わず手に取る友禅に、守貞が言う。
「それは、野暮天変態用に極秘裏に研究されていた女用の袴だ。振り袖でも動きやすく、だが可憐さを失わずに。開発がすむ前に洋装のロリィタが席巻したから日の目を見なかったが、こいつが世に出ていたら、変態どもに立ち向かう乙女たちは、みんな振り袖に女袴だっただろうよ」
「守貞、どうして、これを」
驚きと戸惑いに揺れる友禅に、守貞はなにを当たり前のことをと言わんばかりの表情だった。
「おまえに一番似合うと思ったからだよ。おまえなら誰よりもこいつを着こなしてくれると思ったから仕立てた、それだけだ」
息を呑む友禅の肩に手をおき、守貞はさらに言う。
「俺ができるのはここまでだ。これを着るも着ないもおまえ次第だ。どうする、友禅」
「……ひどいな、守貞。こんなかわいい着物を前にして、着ないと言う選択肢がある乙女がいると思っているのか」
笑いながら立ち上がった友禅の瞳がわずかに潤んでいるのを、守貞は見て取り、驚いたが。
瞬間、じっと着物と女袴を見つめる友禅の表情が、衣装を吟味する乙女の顔になった。
「……この組み合わせでも十分かわいい。かわいいが、もっとかわいくなるはずだ」
「なに」
「この袴を見て思ったんだ。和装だ洋装だと区別する必要はないのではないかと。乙女たるもの、よきものはすべて取り入れるべきだ。かわいいは正義なのだから!」
乙女らしく、新たな衣装に表情を輝かせる友禅に矢継ぎ早に提案された守貞は、その珍妙な要求にも胸をたたいて応じた。
なぜならば、友禅の趣味の良さを守貞が一番わかっているからだった。
「はんっその程度、俺にかかれば朝飯前だ!」
「……だがその前に、守貞よ」
「なんだっ友禅」
「風呂に、入ってもらえぬか。……少々臭うぞ」
形良き鼻をつまみながら微妙に目をそらす友禅に、この1週間着の身着のままだった守貞が気恥ずかしげに銭湯に駈け込むのに、そう時間はかからなかった。
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乙女の緋色は、魔よけの色。
鮮やかな緋襦袢をはおり、その上より、懐かしきも新しい白振袖を滑らせる。
着丈は普段より短め。ふくらはぎが見えるほど。
しゅるりと衣擦れの音をさせながら腰ひもをきゅ、と固く締め、おはしょりを整える。
たっぷりと半襟が見えるように前を合わせ、伊達締めを巻き、ゆるりと襟を押さえる。
そして、深き臙脂の女袴に足を通した。
新しき衣を身に着ける。その一瞬が何よりも乙女の心を高ぶらせる。
「本来は、帯の上から穿くもんなんだがな」
「そんなの、帯が見えなくてつまらんだろう?」
「まったく、初めて見た着物だってのに、どうしてこんなことを思いつくんだか。お前にはいつも驚かされるよ」
苦笑する守貞に手伝ってもらいつつ、袴を身に着けた。
流石に、袴を身に着けたことはなかったからだ。
震えるような喜びを味わいつつ、いつもより丁寧に帯を締め、最後に麗子より預かった紫のリボンを手に取った。
「俺が結ぼう」
「頼む」
背後にまわった守貞の手が髪に触れ、衣擦れの音をさせながら器用に結い上げていくのを感じながら、友禅がぽつりと言った。
「……ありがとう、守貞。乙女心に灯をともしてくれて。もうしばらく、私は戦乙女でいられそうだ」
「そんなことはいいから、せいぜい変態どもに魅せつけて、戦友の敵をとってこい」
「ああ、もちろんだ」
守貞が結い終えた途端振り返り、はにかんだ友禅の笑顔は。
慣れているはずの守貞でさえぽうっと見とれるほど可憐であった。
守貞が絶句している間に、離れた友禅は姿見の前に立つ。
鏡に映りしリボンを見やり満足げにうなずく、その表情はすでに艶やかな戦乙女のものである。
「麗子。では、行くぞ」
そうして紫のリボンで髪を飾りし友禅は、傍らに立てかけていた長刀を手に取ると、かかとを高らかに鳴らして、疋田屋を後にしたのであった。
たとう紙 (たとうし)……結髪の道具や衣類などを包むための紙。日本の包む心の極致ともいえる。ここでは特に着物を包む物を指す。包んだ衣類を保護する目的のほか、扱いやすくするための必需品だった。
洗い張り (あらいはり)……仕立てられた着物をほどいて、反物の状態に戻してから水洗いをすること。 全てほどき、反物の状態にしてから洗うため、手間はかかるが物によっては新品同然になる。日常着は家庭でもされていたが、刺繍や金箔の施された物は技術が必要になるため、悉皆屋という所に呉服屋を通して頼むことが多い。
中振り袖 (ちゅうふりそで)……袖丈二尺 (約76センチ)ほどの振袖のこと。
結婚式などの正式な場に着用できるにもかかわらず、3尺 (114センチ)ほどある大振袖よりも機動性に優れている。
女袴 (おんなばかま)……別名行燈袴。対野暮天変態対策に戦振袖の仕立て師たちによって極秘裏に開発されていたが、政府がロリィタファッションの導入を決めたことにより日の目を見ることはなかった。
臙脂色 (えんじいろ)……濃厚な深紅。その深き赤は乙女の艶やかさに一層の花を添える。
風呂 (ふろ)……明治時代でも家に風呂があることはめったになく、もっぱら銭湯であった。田舎では未だに月に一度の入浴だったが、都市部では少なくとも2,3日に一度は銭湯に通っていた。守貞の風体は乙女にとって許せぬ範疇に入っていたと思われる。
緋襦袢 (ひじゅばん)……古来より遊女など体を張る職業に就いた娘たちに愛された赤き下着。身長に合わせ仕立てた長襦袢と、機動性を考慮し上下がわかれた半襦袢がある。緋色なのは単純に可愛いから、という理由もあるが、赤は古来より魔除けや生命力を補う色とされたため、身を守るためのお守りとされた。
蹴出し (けだし)……着物の保護と裾捌きをよくするために巻きつける、着物用の下着。上記と同じ理由で赤が好まれた。裾を捌くときにちらりと見える緋色は、殿方を悩殺する武器として有効。
腰ひも (こしひも)……着付け用具の一つ。着崩れを防ぐために腰回りに結ぶ紐のこと。毛織物のモスリンや、綿などでつくられ、それを自ら作るのが乙女のたしなみ。
伊達締め (だてじめ)……着付け用具の一つ。幅10センチから15センチほどの幅広の紐。正絹が一般的。主に襟元の着崩れを防ぐために用いられる。
如何に着付けの紐を少なく、かつ着崩れなくするかが、乙女の腕の見せ所。
おはしょり (おはしょり)……着丈に合わせて余った部分を腰の上で揚げ折り、腰ひもで結んでとめること。またその部位。女性のみ。
江戸時代は裾を引きずって歩いていたが、明治ごろから着崩れしにくいなどの利便性が認められ、おはしょりを作って着るようになった。
半襟 (はんえり)……長襦袢や半襦袢の襟に縫い付ける布。襟が汚れてもすぐに洗い替えができるようにという知恵だが、着物の雰囲気や顔映りを左右する重要なコーディネートアイテムでもある。基本は白だが、一面豪華な刺繍を縫いとったり、大胆な柄物を用いることもある。
着物を気軽に新調できない時代、半襟は乙女にとって気軽にできるおしゃれであった。
リボン (りぼん)……乙女の重要アイテム。女学生の間では特別な友愛を誓う際に用いられた。相手のリボンを身に着けることは、相手を常に想うという意思表示である。