士シ告心風起承転結
時折、自分を傷つけてようとした人の向こう側を透かしてみると、大抵は醜い。
でも大丈夫。そんなこと思ってる私も醜悪なのだから。
醜いモノ同士、仲良く同じ水に住めるからいいでしょう?
清濁併せ持つとか上手いこと言っちゃって。ただ本当は、裏も表も切り離すことが徹底できてないだけなのにね。併せ持つじゃなくて、混ぜただけの方がいいんじゃない?
問題を見ず、年齢を盾に相手を罵倒するのは品がない。
きっとそれしか誇れなかったんだろう。もしくは、それしかないくらい言葉が軽くて薄い人生なのだろう。
そう思えば愛しく思える…わけもない。
せめて自分は同じことをしていない……と胸を誇れるように。ただ、それで傲慢になるか、聖人になるか。自分がどうなっているのかが分からない。直視できない。それが問題だ。
日本語は聖人と成人の響きが一緒。
だから成人と聞くたび、聖人の誰かに思いを馳せて、己の心はどこまで来れたかを立ち返る。
かつて思い描いていた大人と比べて恥ずかしくないだろうか。
無邪気に子供だった己に恥じない大人になれるか。それとも重責を投げ出すのか。
私の「負けず嫌い」という意地だけでは歩き抜けられない道である。
こうして考えていると、自分が思案の果てに今の立ち位置にいることに気付く。
自分の嗜好が、自分の信念が、どちらに偏るかということを自分の正しさという尺度で測っている。
でも、忘れてはいけない。
もしかしたら自分が軽蔑した誰かの行動は、誰かの思索の果てに産まれた善行だったのかもしれない。
……うん。それでも私は、ポイ捨てが嫌いだ。
テーマ「ゴミのポイ捨てについて」
敢えての一文。