第二章 少女
自分の絵を描いてほしい、と、村長が頼んできた。十七歳のミシェールが展覧会で賞を取り、近隣で有名になったことも手伝って、自画像を家に飾ってみたいという欲求が沸いたらしかった。
両親を亡くして以来ずっと面倒を見てくれた人の頼みでもあり、彼は二つ返事で承知した。
それまで簡単な素描だけなら両親や村の人々を描き留めていたが、人物を本格的に描いたことはなかった。
だから一張羅を着て椅子に座って胸を張る村長と自分の間にキャンバスを置き、木炭を走らせようとした時まで、わからなかったのだ。
ふっと意識が遠くなった。夢を見ているときのようなふわふわと頼りない感覚の中、自分の腕が動いていることを漠然と感じていた。
我に返ったのは、村長の声ではっとしたからだった。
しかしキャンバスを見て、もっと驚いた。
木炭で描かれていた素描は、髪が薄くなりかけた小太りの老人ではなく、その面影を持った青年だったのだ。若々しく生命力に溢れた青年は、小柄で愛らしい少女と幸せそうに寄り添い、どちらも満ち足りた笑みを浮かべていた。
昔の自分と亡くなった妻だと、村長は呟いた。
村長を喜ばせるつもりでミシェールが村人に妻の容姿や特徴を聞き、あの絵を描いたのだろうと彼は解釈したようだったが、そうではなかった。ミシェールは村長自身の、ごく普通の肖像画を描くつもりでいた。
意識がない間に勝手にあんな事になっていたのが恐ろしく、その後人を題材にするのを避けた。
だが図らずも二度目に同じことがあったとき、彼は確信と恐怖を覚えたのだった。
その日は家の前に座って、村の風景を描いていた。事件が起きたのはそれから間もなくのことだった。
彼の向かいの店から、女の大声が往来に転がりだしてきたのだ。次いで子供の喚く声も。
銀貨が一枚なくなったのだという。
彼女は村で一軒きりの雑貨屋のおかみで、店は往来に面して大きく品物を並べている。通りすがりの男達の話では、彼女は客に銀貨を渡されて釣りを数えるのに少し手間取っていた。
何とか釣り銭を返したあと、視線を戻すと銀貨が消えていた。そばにいたのは彼女の息子だけだった。
子供は泣きじゃくりながら、自分の潔白を訴えていた。しかし女は聞く耳持たず、怒鳴り声と甲高い泣き声の応酬を人々は遠巻きに眺めているだけだった。
ミシェールもその中の一人だったのだが、木炭と紙にふと目を落としたとき、それが起きたのだ。
記憶がなくなっていた。
はっと気づいたとき、真っ白だったはずの紙の上には木炭の線が踊っていた。
釣りを渡す女。銀貨は粗末なテーブルの下に落ちて、隙間に潜り込まんとしていた。
子供はまだ泣いていた。女は怒鳴る気力が尽きたのか、肩で大きく息をしている。
ミシェールは、ふらふら立ち上がった。
否定したかった。村長の絵を描いてしまった事実を、偶然だと思いたかった。
記憶がない間に描いた絵が、真実を語るだなどと。
「ミシェール?」
女がいぶかしげに彼を呼んだが、かまわずに真っ直ぐテーブルを目指す。
裏へ回りかがみ込んで、その下を探った。
息が止まる。
動けなくなった。
掌に触れた、冷たく固い感触。
「あ……銀貨だ!」
真っ先に気づいたのは子供で、座り込んだまま茫然としていた彼の掌から銀貨を奪い取り、得意げに母親の鼻先へ突きつけて何か言っていた。母親のほうは先ほどまでの勢いをすっかりなくし、ぼんやりしている。
ミシェールは、自分の家へ駆け戻った。
すぐに絵を破り捨て、何日も家に籠もって震えていた。初めて絵を描くことを恐ろしいと思った。
人の絵は、今でもミシェールにとっての禁忌だ。
王都へ来て、一月ほどが経過していた。
与えられた部屋には大きな窓があり、夕方のこの時間はうっすらと西日が赤く射し込んでくる。
何気なくそこから庭を見下ろして、庭の木々と花がすっかり様相を変えてしまっているのを目の当たりにし、ミシェールは愕然とした。
いつの間にか、一年のうち光の女神メシアナの司る六ヶ月が半ばを過ぎようとしていた。おかしなもので、今日になってようやくミシェールは時の流れを自覚したのだった。
大切に手入れをされているとわかる背の高い木は、いつの間にか若々しく鮮やかに輝く緑の葉をいっぱいに茂らせていた。花壇も鮮やかな明るい色の洪水は止まっており、今は慎ましい風情の幾種類かの花が、すっと澄まして落ち着いた色合いで咲いているだけだった。
あの日から屋敷から一歩も外へ出してもらえず、一挙手一投足にこれまでとはまったく違ったやり方を強制された。
それだけでなく、毎日朝から夜遅くまで幾人もの権威を振りかざした人々から耳に馴染みのない言葉を聞かされ続け、ひたすらにそれらを頭にたたき込むことを強要されている。
今日もそんな日課がすべて終わったばかりで、彼は窓辺の椅子にぐったり沈んでいた。
「失礼します」
抑えたノックの音と一緒に、使用人の娘が外から声をかけてくる。入室の許可を与え、自分が少なからずここでのやり方に馴染んでしまっていることに気づき溜息が出る。
来たばかりの頃は、自ら扉を開けに行って控えめだが厳然と注意をされたのに。
「ミシェール様、旦那様がお呼びです」
彼よりも年下であろうそばかすのある娘が、静かにそう告げた。溜息をつき、彼は応じようとしたが。
「おいでになる前に、お召し替えをとのことです」
「え?」
惚けている間に男の従僕達が入ってきて、あっという間に着替えさせられてしまう。上質の絹のシャツに、かっちりとした重い生地のベスト。さらに大きな襟の付いた上着まで着せられて、フェオドールの前に引きずられていく。
フェオドールは、ミシェールよりもずっときらびやかに装って待ちかまえていた。
「作法は身につけているな? 恥をさらしたときは覚悟するがいい」
「どこへ行くんですか?」
恐る恐る尋ねると、喉元までを覆う襟に控えめなレースがあしらわれた上着と、皺一つないズボンの紺の礼服に着替えた彼は、無言で封筒を突きつけてきた。読み書きも覚えさせられたおかげで、上品な手漉き紙のカードに流麗な文字で記された内容は理解できた。
「招待状……」
「主催者はオラニエ男爵。あとで顔を見せる」
言い回しに、不自然さを感じた。
沸き上がった嫌な予感に顔を強ばらせると、フェオドールは嘲笑うように顎を上げる。
「道楽でお前をここに囲っているとでも? 最初に言ったはずだぞ、なぜお前を連れてきたのか」
肌が、粟立つ。
「いやだ……いやです!」
描きたくない。
知らなくていいことを、視えるはずのないものを、感じたりしたくない。
フェオドールの顔から笑みが消える。その唇が、小さく微かに言葉を紡ぐ。
次の瞬間。
何も見えなくなり、全身を貫く痛みにミシェールは叫んだ。
身体がばらばらに砕けたのかと、床に倒れてから思った。指先を動かすことすらひどい痛みに阻まれて叶わない。目の前で光が弾けている。
「逆らうことは許さない」
よく磨かれた靴先が、視界に入ってくる。蹴られるかと反射的に目を閉じたが、やや乱暴に引き起こされただけだった。
信じられない。この家の家令という人から話を聞いてはいたが、まさかと思っていた。
なのに。
今、全身を貫いていった雷。間違いなく、フェオドールのしたことだと直感した。
「これが魔術だ」
光と闇の女神に仕える巫女達が還俗した際王侯貴族に娶られたことで、彼らの血の中に受け継がれるようになったといわれる神秘の力。血の純粋性を重んじた風習が今も色濃く、王族、貴族以外でこの力を扱える者などいない。そうミシェールは聞いていたが。
「ブランもわずかながら扱えたぞ。もちろんアンヌもな」
目眩がする。
幼い頃の思い出の中で微笑む母の笑顔が、どんどん遠いものになっていく。
「時間だ。行くぞ」
まだおぼつかない足取りのまま、ミシェールは従僕達に半ば支えられるように玄関へ運ばれる。
先を歩いていたフェオドールが、肩越しに振り向いた。
「これより正式に、お前は私の従者だ」
彼の身体を従僕から受け取り、片腕で支える。
「それに相応しく振る舞え。ミシェール・ブラン」
名前の後ろに加えられた短い音律が、耳から腹の底まで落ちて不快なしこりとなった。
シャンデリア、酒の匂い、着飾った男女。色と光の奔流だった。
ふんだんに布を使い、輝きを乱反射する宝石で縫い止めたドレス。
笑い声と、唐突に流れを変える音楽。
何もかもが襲いかかってくるようだった。しかもシャンデリアは夜の室内ということが信じられないほどにまぶしくて、目を灼かれるかと思った。
聞けば、太陽と見まがうほどのこの光は、魔術で生み出されているという。
目の前がちかちかして、ついミシェールは広いホールの隅の方へと下がろうとする。それをフェオドールは許さず、彼の腕を引いてざわめきの輪の中をゆっくりと歩いていった。転ばないようについていくのが精一杯だ。
「背筋を伸ばせ」
小声で命じられても、気後れしてしまい視線は床ばかりを這う。あまりに大勢の、それも自分とは住む世界が違いすぎる人々の間に放り込まれていつも通りでいられるほど、彼は肝が据わっていない。
「ミシェール」
ささやきと一緒に、くいと腕を引かれる。思わず顔を上げると、フェオドールの黒い目がある一方を示してきた。そちらに顔を動かして、ミシェールは壮年の紳士の姿を認めた。
髭を生やし黒い髪をきちんとなでつけ、周囲に集まった数人と笑い交わしている。
「顔を覚えておけ」
一瞬の後、思考が繋がる。
では、描かせるつもりなのはあの紳士なのだ。今日のパーティーの主催者で、確かオラニエ男爵という名前だったか。
「非常に武術の腕が立ち、国王陛下の覚えがめでたい」
やはりゆっくりと、フェオドールは壁際へ移動しながら小声で話した。
「爵位が一代限りで、あまり財産を持たないのが欠点だな。だが彼の息子とアラゴン伯爵の息女が婚約中だから、めでたく話がまとまれば何の心配もなくなるだろう」
今力のある貴族達の名前と家族構成もミシェールは覚えるように言われているが、顔と一致させるまでには至っていない。フェオドールがここに同行させたのは、その補完の意味もあってのことらしい。
ミシェールは、オラニエ男爵の横顔をじっと見つめた。
黒々とした特徴的な口ひげに、年齢のわりに引き締まった体つき。談笑は途切れなく、おそらく話し上手で朗らかな人柄なのだろう。ミシェールの目にも、大変男らしく好ましい人物のように映った。
「どうして、あの人を?」
思い切って尋ねると、傍らの青年は軽く眉を上げて見せた。
「あの人は男爵なのだから、あなたの方が地位が上なんでしょう?」
「何が言いたい?」
「あの人に何かをして、失脚させる必要はないんじゃないですか?」
フェオドールははっきりと目的を口にしなかったが、ミシェールの絵を、力を、彼は公爵家のために利用するつもりでいるに違いない。それはつまり、政敵を陥れる道具とすることではないか。
今日までいろいろ考えて、導き出した結論がこれだった。
「聡いな。自分で察したか」
楽しげに彼は喉の奥で笑う。
「しかし、お前には選択の余地はないぞ」
「描きません」
絶対に。何をされても。
「誰かに危害を加える道具にされるなんて……」
「人を殺すわけでもない、そこまで深刻に考えることはないぞ」
ミシェールは、かたくなに首を振る。
「人の絵は描かないと、決めているんです」
恐ろしいから。自分の手からあふれ出すものが。
視えてはいけないものに、関わりたくないから。
「その力が、それほど忌まわしいか?」
のろのろと、ミシェールはフェオドールを見上げた。
怜悧に整った美貌。何者にも臆することは決してないだろう、漆黒の瞳。
気のせいか、彼の声音が今までと違うように思えた。
「何を恐れている? 常人と違うからと、排斥されることか?」
傲慢で冷酷な表情しか見せなかった青年は、今は違う顔を見せている。
「それを言うなら、この場にいる者は全員化け物だ。お前が一番、いわゆる『常人』に近い」
「……」
「そうだろう?」
フェオドールは手を掲げ、そこで刹那光が弾けた。
貴族は神秘の力を操る。
身を灼いたあの雷。
指摘されて初めて、気づいた。
ここにいる自分が、決して異端ではないことに。
言葉を失ったままミシェールはフェオドールを見返していたが、彼の方から視線をはずされた。
「まあ、お前は半分庶民の血が混ざっている分、ここでは普通ではないことになるのかもしれんが」
手首を掴まれる。ホールの出口へ向かうところを見ると、用は済んだということか。
「最高の道具をそろえてやろう」
前を見たまま、公爵は言った。
「己を戒める必要はない。存分に描け」
唇を開きかけたが答えを返すことはできず、ミシェールはただうつむいた。
アトリエ兼自室として新たに与えられた部屋は簡素だが調度品が立派で、絵の具で汚してしまうことが躊躇われた。
寝室としても使え、寝台は柔らかくシーツはおそらく絹だ。しっかりとした机まで揃えられている。やはり庭に面した大きな窓からの眺めは前よりもよく、穏やかな晴れた日の午後の風景を描いてみたいと少し思った。
しかし、ミシェールに与えられた画題はオラニエ男爵で、拒否することはできない。そんなことをすればまたあの雷に撃たれるか、もっとひどい目に遭わされるだろう事は明らかだった。
「……一つ、条件があります」
部屋の中央に佇むフェオドールに、おずおずと切り出す。そんな自分を心底情けなく思った。
「絶対に、男爵に危害を加えないことを約束してください」
フェオドールは、おもしろがっているような表情で眉を上げた。
馬鹿にされている。
かっと頬に血が上った。
「特に何をするかは考えていない。お前の力がどれほどのものなのかを知りたいだけだ」
淡々とそれだけ言って、フェオドールはきびすを返す。
「なるべく早く絵を完成させろ」
そのまま、彼は出て行ってしまう。ミシェールはがっくりとその場にへたり込んだ。手が震えている。
約束を実行してくれる保証は限りなく無に近いが、これくらいしかできることはない。
気持ちが落ち着いてから、イーゼルとキャンバスの前に座る。今まで使ってきたのとは比べものにならないくらい良質で、後ろめたいながらも嬉しくなってしまう。真新しい絵筆も、ナイフも、宣言された通り最高の品だった。
指先でゆっくりと、それらを撫でていく。自然に頬がほころんでしまう。
がたん、と扉が鳴ったのはそのときだった。
ミシェールは飛び上がり、きょろきょろと辺りを見回す。
扉が大きく開いていた。フェオドールが戻ってきたのかと一瞬思ったが、誰も入ってくる様子はない。
恐る恐る、廊下を覗く。装飾品がほとんどない廊下は、日の光に煌々と照らされて余計に寒々しく見える。
誰かのいたずらだろうか。
だが顔を引っ込めようとした刹那、ミシェールの視界にちらりと金色がよぎった。
もう一度廊下を見回す。すぐにその正体がわかった。
角から現れた、長い髪。
がらんとした寂しげな空間にあって、それはいっそう鮮やかに目を惹いた。
金色が弧を描く。振り向いた顔が、はっきり見て取れる。
美しい少女だ。
身につけているのは、動きやすそうなドレスだった。青い瞳は大きくつぶらで、何の感情も表さずにただミシェールを捕らえている。
「君は……」
言葉は、最後まで口にできなかった。
少女はぱっと身を翻し、廊下の向こう側へ駆け出した。
ミシェールは、しばらくドアに手をかけたまま立ちつくしていた。




