第一章 フェオドール
戸口が乱暴に開かれる。絵筆を持ったまま腰を浮かせた水色の髪の青年は、まばゆい昼の光に目をすがめた。
陽を背にして立つ漆黒の人影。傲慢な声がすぐに寄越される。
「ミシェールだな?」
問いかけの形は取っていても、断定的な響き。気圧されそうになったが、ミシェールはかろうじて踏みとどまった。
「あの……どなたでしょうか。こちらには、値を付けた絵は一枚もありませんが」
「お前の描いた風景や静物には微塵の興味もない」
不躾な来訪者は、大きな歩幅で小屋の中へ踏み込んでくる。繊細な美貌に困惑を浮かべ、ミシェールは立ちすくんだ。
光に阻まれずに見えるようになったその姿は、彼とさほど歳の違わない黒い髪の青年だった。不遜な雰囲気を纏い、顔立ちは冷たいほど整っている。 喪に服してでもいるように、細身の身体を覆う丈の長い上着もズボンもすべて黒だ。
「ぁ……っ!」
息が止まる。
伸びてきた手に、乱暴に顎と喉元を捕まれて。
「本人は知らぬが、あの絵の女と確かによく似ているな。目の色も同じ紫だ」
何を。
誰と、似ているというのだ。
「来い」
首を解放されると同時に、腕を捕まれ引きずられる。よろめいて膝をついた彼に、黒衣の青年はいらだたしげに舌打ちした。
「突然何を……」
二十二年生きてきて、こんな仕打ちをされたのは初めてだ。痛む喉を押さえて相手を見上げ、彼は大きく目を見開いた。
背筋が凍る。
そこにあった漆黒の双玉。
背筋に氷を押し当てられたように、ぞっとしてミシェールは口を噤む。
「立て」
戦き、萎縮した彼を、青年は引きずるようにして外へ連れ出した。森を背にした小屋の反対側は小道になっており、こんな田舎には不釣り合いなほど豪奢な馬車がどこか緊張を孕んだ様子で待っていた。
突き飛ばされて倒れ込んだのは、絵の具で汚れた手や服を触れさせるのが躊躇われるほど柔らかくなめらかなビロード張りの座席で、ミシェールはあわてて身を起こした。向かいに青年が足を組んで座っており、短く「出せ」と御者へ命じる。
声を上げて人を呼ぼうにも、この辺りに人家はまばらだ。青年が腰に下げている細い剣も、ミシェールを躊躇わせるのに十分な威圧感を持っている。
彼が迷っているうちに、馬車は主を気遣うようにそれは丁寧に動き出した。不躾に全身をはい回る青年の視線に彼は身を縮めていたが、やがて勇気を出して口を開いた。
「突然、何故このようなことを? あなたは……」
「私の名は、フェオドール・セイン・デ・オーランシュ」
黒の双眸に、冷酷な愉悦が浮かぶ。
「お前の母は、アンヌ・ブラン。そうだな?」
からからに干上がった喉が痛くて、ミシェールは無理矢理唾を飲み込んだ。
「……確かに、アンヌという名前です。でも母には姓はありません」
「ないのではない。隠していただけだろう」
相変わらず話が見えず、彼は拳を握っていた。
姓を持つのは、このローレンシア王国においては商人や貴族、王族だけ。 辺境の小さな村で生まれ育った彼や、彼の両親には持ち得るはずがないものだ。
「すべて話してやろう。アンヌのことも、ブラン一族のことも。そして」
手が伸びてくる。びくりと肩をすくめた彼の髪を、フェオドールの指先が掬い取る。先ほどの振る舞いが嘘のような優しさで。
「お前の、『人の時を描く』力のこともな」
表情を凍り付かせた彼に、黒い瞳はますます楽しげに細められた。
先代の国王ロイス三世は、芸術を愛し、保護することを奨励した。それは今のシャルル王の治世になっても概ね変わらず、王都は近隣のどの国よりも華やかで美しく、洗練されていると讃えられている。
そんな芸術的関心の高い国において、ミシェールは最近ようやく絵で生計を立てられるようになったばかりだった。
家から馬車で一日ほどの所にある、領主直轄のタイーナという大きな街にいる画商によく絵を見せに行っていたが、そこですらいつもにぎやかさと人の多さに圧倒されていた。
だから、小屋を出て三日目に馬車が街に入ってからは、目に飛び込んでくるものすべてが衝撃で、しばらくフェオドールの存在すら気にならなくなったほどだった。
大きな通りをたくさんのこぎれいな身なりの人が行き交い、白い石造りの大きな店が建ち並ぶ。馬車の数も多い。
彼の目には想像を絶するほど、大きく立派な街並みだ。タイーナよりも活気があり、建物も佇まいや造りに、どことなく品がある。
ドレスの店の大きな出入り口を縁取る、水の流れのような精緻な彫刻。
青い空に映える、壁の輝くばかりの白さ。
塵一つ落ちていない道には大きな街路樹がどこまでも植えられていて、枝振りもすべて整然と整えられている。
それだけでなく、道に面した窓には色とりどりの花が飾られ、優しく力に満ちた春の様を見せてくれていた。
自分の置かれた状況を一時忘れ、ミシェールは生まれて初めての光景に夢中になり、馬車の小さな窓に張り付いていた。
フェオドールと彼の威圧的な雰囲気への恐れを思い出したのは、大通りをはずれ閑静な道に入り、大きな鉄の門の中へ入っていったときだった。彼は視線を巡らせ、あの射すくめるようなまなざしでミシェールを見た。
「まずは服だな」
「え?」
「いつまでもその見苦しい格好でいるつもりか?」
そう言えば、絵の途中で引きずり出されてきたのだった。ここへ来る途中に泊まった宿で身体は洗っていたが、よれよれになったシャツもズボンも色の爆発の痕跡を残したままだ。今更ながらミシェールは、自分の姿を気まずく思った。
馬車が止まったのは、門に負けず劣らず大きな入り口の扉の前だった。見上げた首が痛くなるくらい巨大で古めかしい館にあっけにとられていた彼だが、すぐに重々しい音を立てて厳めしい扉が内側から開かれる。
フェオドールに押しやられるように入ったホールは、天井の高い吹き抜けでとても広かったが、どことなく薄暗い。身を縮めていたミシェールは、奧から出てきた数人の女達に取り囲まれ硬直した。
「終わったら私の部屋へ」
短く言い捨て、フェオドールは館の中へ入っていく。ミシェールは気まずくなるほど恭しい女達に促され、柔らかすぎる絨毯の上を気をつけて歩き出した。
そろいの黒い服に白のエプロンをした彼女たちは、フェオドールの家の召使いに違いない。
湯浴みをさせられ、用意された服に着替えているうちに落ち着いてきた頭が、ようやく考えることを思い出してくれる。
彼はきちんとした教育を受けてきたわけではないが、フェオドールの名前とこの屋敷の様子から、嫌でもその素性の一部はわかってしまう。
名前の中に「デ」を持つのは、貴族階級だ。そしてこの街の規模の大きさ。おそらくここは王都か、それと同じくらい豊かな都市だ。
意識せず溜息が漏れてしまう。推測が当たっているとしたら、なぜ雲の上にいるような見知らぬ人間が自分をこんな目に遭わせるのか。
ソファーとテーブル、机と大きな書棚。それ以外には何もない質素な部屋だった。世界の流転を守る二柱の女神の像すら置いていない。だがソファーに身を沈めミシェールをまじまじと見ている主の存在感は、どんな豪華な調度品や芸術品にも勝るほど強烈だった。
目を離せなくなるのだ。表情の一つ、指先の些細な動きすら魅力的で。
「少しは見られるな」
気後れするほど仕立てのいい服を着せられ部屋に案内されたミシェールに、黒髪の青年が発した第一声がこれだった。
伸ばしたままにしていた髪も綺麗なリボンでまとめられ、肌に触れるシャツの布地はどう考えても麻や綿ではない。彼の困惑は頂点に達し、それを見て取ったのかフェオドールは唇の端をつり上げた。
「さて。約束だ、話してやる」
ゆったりと座ったまま、青年は指を組み合わせる。
「ここは王都ロワーヌ。私は先だってオーランシュ公爵家の爵位を継いだばかりだ」
それが具体的にはどれほどの力ある地位かはわからないものの、自分の想像が当たっていたことにミシェールは息を呑む。
だが、次にもたらされた言葉は完全に予想を超えていた。
「そしてお前の母の一族は、代々我が家に仕えてきた者達だ」
「え……!」
フェオドールの笑みが、さらに深まった。
「過去と未来を視ることができ、公爵家に富と権力をもたらした。それがブランの一族だ。お前にも半分はその血が流れている」
ぐらりと目の前が傾ぐ。
話の内容が、理解できない。
「どの程度力を受け継いでいるか定かではないが、お前にもブランの務めを果たしてもらうぞ」
「な、にを……」
ミシェールは喘いだ。
だが、絵空事のような彼の言葉を、否定することもできない。
「お前の噂を聞いたし、調査もしている。未だに昨日のことのように語られていたぞ」
くつくつと、楽しげな笑い声が耳に届く。
「知るはずのない過去のこと、先に起こることを絵とする。視えるのだろう、お前にも?」
必死で首を振りながら後ずさったが、黒衣の青年はすぐに追ってきて彼の細い腕を強く掴んだ。
「目を逸らすのはやめるんだな。私はお前の力を否定も迫害もしない。存分に描かせてやろう」
強ばった背中に、何かが触れる。手だ。
冷たく整った美貌が、ぐいと近づけられる。
息が出来ない。
「今日から、お前を従者とする。必要な知識を蓄えろ」
喉に、指がかかる。
「できなければ……命はないものと思え」
身体から、熱という熱が奪われる。
肌に指が食い込んできて、目の前が真っ暗になった。
足が震えて、立っていられない。
放り出されて、床にへたり込んだミシェールは、きつく己の身体を抱きしめた。
怖い。
彼は、本気だ。




