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第十七章 追想

 父と母に甘える榛の瞳の少年を見ると、いつの頃からか胸の中に何か澱のようなものがたまり始めた。それはどんどん増えていくばかりで気持ちが悪かったが、原因もわからずその感情に名前を付けることもできず、彼は成長していった。

 無気力に窓の外を眺め、食べ、呼吸をするだけの母親は、彼にも兄達にも関心を向けなかった。生まれた時にはすでに、父親はいなかった。

 本を読みふけるだけの一番上の兄、馬とばかり過ごす二番目の兄。彼は、笑うことを知らぬままに大きくなった。

 泣く、ということを知ったのは、母の葬儀の時が最初だった。兄達は涙を堪え、使用人達はしめやかにすすり泣きをしていた。

 一番目の兄が、不意に彼の方をこづいた。

『母上が亡くなったのに、何でお前は泣かないんだ!』

 異様に赤く濡れた目で睨みつけてきて、さらに彼を罵った。墓地の乾いた土の上にへたり込み、彼は兄を見上げることしかできなかった。

『お前なんか弟であるものか! 母上の死に泣かないような奴が!』

 周囲が止めて、それ以上のことはなかったが、以来彼は兄達と関わるのを極力避けるようになった。

 長じて後、公爵位継承の話がもたらされた。一番上の兄が、父のものだったそれを受け継ぐのだという。家中が浮き立った雰囲気に包まれる中、彼は嬉しそうにしている長兄を遠くから眺めているだけだった。

 父の顔は、肖像画でしか知らない。油絵の具のぐにぐにした色で顕された半身像を、その夜彼は一晩中眺めていた。

 父は、人を殺そうとしたのだと聞いたことがあった。その罪のせいで死んだのだと。母は心労のあまり病に倒れ、身罷ったのだと。

 なぜ、と彼は答える由もない色の混合に問いかけた。何がほしかったのか、何がしたかったのかと礫のように疑問をぶつけた。

 それまで見向きもしなかった父の書斎に忍び込み、父の生前の記録をしらみつぶしに探した。古い日記のある一文に目が留まったのは、運命だったのだろう。

 ブラン。時を読み形と為す一族。

 その一員である女が、父に破滅をもたらしたのだとわかるまで、時間はかからなかった。彼女の顔も、物置にされていた部屋にしまい込まれていた絵で見ることができた。

 探そうと思った。彼女なら知っていると思ったから。答えをくれると思ったから。

 だがそのために必要な力は、彼にはなかった。

 兄がもうすぐ手にする力、公爵としての権力が、最大にして最後の条件だった。

 自分の前に立ちはだかる二人を排除し、爵位を継いでからすぐに彼はブランの女を捜し始めた。

 しかし時間が経ちすぎていたことと、手がかりがないに等しかったために捜索は難航を極め、いつの間にか十年近くが経過していた。

 それでも、見つけることができた。彼女自身ではなく、彼女の力を受け継いだ青年を。

 信頼させることが肝要だった。父を破滅させた力を、父よりうまく使いこなす。なかなかよい思いつきであるような気がした。

 そしてまったく予期しなかったことだが、今は至高の地位にいる榛の瞳のはとこを失墜させる格好の材料まで手に入った。

 最初は、あの事件に関わっただけで地位と名誉を手に入れた男を追い落としてやろうと思っていただけだったのだが、手に入れた秘密は非常に魅力的で、その結果もたらされる事象を考えるだけで魅惑的だった。

 自分に澱を生じさせる原因が何なのか、この感情を何と呼ぶのか、そのときには彼はわかっていた。それを排除する方法も。

 思っていた以上に便利な力だった。それを操る青年は、道具であれば十分だった。なのに。

 あの紫の無垢な瞳は、ひとたび開かれると真っ直ぐ彼を捕らえた。

 悩み、葛藤しつつも彼を知ろうとし、受け止めようとしていた。

 優しく接すれば微笑み、踏みにじろうとすれば悲しみに沈む。それでも、決してただ一つの色には染まらなかった。

 あの日。月の中で抱きしめられたとき、幼い日から胸にあった澱がおかしな具合に揺れるのを感じた。

 向けられるまなざしが気持ち悪かった。突き放し、徹底的に打ちのめせばあのひたむきさは消えるのかと思ったが、最後の最後まで自分にはできなかった。

 気づいてしまったから。

 あの瞳が、そこから溢れ自分に向けられる想いが、心地よかったのだと。けれどそう思ってしまえばこれまでの自分を否定してしまう気がして、一度は突き放した。

 雨が降る。目の端に、ぱっくりと傷口が開いた手首が見える。身体中どこもかしこからも血と熱が流れていくのを感じる。

 何もかもが、自分の中からなくなっていく。澱を自分の中に貯めた元凶も、落ちぶれた両親の人生も、兄達を殺めたことも。

 やっと、すべてがどうでもよくなった。

 銀の雫をその身に滴らせ、尚も自分だけを見つめてくれる者がいる。その事実があるだけで過去が消え失せる思いだった。

 何もいらなくなった。ただ一つをのぞいて。

 一緒に連れて行こうと、衝動的に短剣を持つ手が動いていた。

 結局、阻まれてしまったが。

 まもなく自分は死ぬのだろう。わかっていたが不思議に穏やかな気持ちだった。

 彼の気配を感じる。きっと、夢で見ていてくれているのだ。

 これ以上のものは考えられないほどの、最高の手向けだ。

 フェオドールは、静かに微笑み意識を闇に任せた。



 アラゴン伯爵に丁寧に礼をして、ミシェールは荷物を背負い直した。まだ早い時間だ。登ったばかりの太陽が、眠たげな光を伯爵家の門の前に立つ二人に投げかけている。

「本当に、馬車で送らなくていいのかね? 遠慮することはない」

「いいえ。お気遣いだけで十分です」

 柔和な美貌は不思議な表情を浮かべていて、彼が何を思っているのか伯爵には読みとれなかった。

「これからどうするのか、決めたのかね?」

「また絵を描きます。落ち着いてからになるでしょうが」

 伯爵は、どんな顔をすればいいのか決めあぐねた。かける言葉にも迷い、結局は「元気で」と当たり障りのないことしか言えなかった。

「いろいろとありがとうございました。タイーナに家までお世話していただいて……陛下にも侯爵閣下にも、直接お礼を申し上げたかったです」

「アンヌの分も含めた礼だということだ。君達には母子ともに助けられたから、と」

「そう言っていただけると……」

 ようやく、彼は微かな笑みを見せた。手にした古い本を二冊、大切そうに撫でている。どちらも母の形見なのだそうだ。

「お世話になりました。皆様もどうかお元気で」

「ああ」

 もう一度礼をして、彼はきびすを返す。

 その姿が見えなくなるまで見送って、伯爵は長く長く嘆息した。

 夢を見たと、彼は言っていた。フェオドールの時を。

 かの一族の力の片鱗だろうか。だが公爵家の者には力が及ばないと聞いたことがある。

 ただの夢だったのか。それとも。

 伯爵の心に残ったのは、そう語ったブランの末裔の瞳に宿っていた強く悲しげな輝きだった。


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