第十六章 消えゆく月
眠るような顔で、血まみれになっていた少女。
切り落とされた首。
ひざまずいて手を伸ばしかけ、気づく。
違う。ルイーズではない。
これは。
リュンヌ。
黒衣の青年が雨と雷鳴を背に立っている。その手が、自分の頬に触れる。
冷たかった。
彼が反対の手に短剣を持っていたのに、気づいていた。それでも自分は目を閉じた。逃げることも考えなかった。
――そうだな、お前は、連れて行こうか。――
彼は、確かにそう言った。
なのに。
リュンヌ。
目の前が真っ暗になる。落下するように、覚醒がやってくる。ミシェールは跳ねるように身を起こし、薄闇の中寝台に寝かされていた自分を知った。
肌がべとつく。身体を支えていられず、再び褥に倒れ込む。ひどく喉が渇いていた。
耳の辺りで心臓が鳴っている。雨の中、伸ばした手の先に感じた、虚空の感触が蘇る。
金の長い髪が、風に舞った。
黒の双玉は。
あのとき、確かに自分を見ていた。そして。
「……ぅ、ぁ」
喉から何かがせり上がる。呻いて、彼はシーツに顔を押しつけた。
身体中の何もかもが、慟哭となりほとばしる。息が出来なくなって咳き込み、それが落ち着くとまた叫びを吐きだした。
少女の笑顔と、青年の面影がぐるぐると頭の中を巡る。
この手が、届かなかった。
ほんの少しで。
涙と声が尽きても、彼は伏したまま小刻みに震えていた。
その、髪に。
「泣かないで……」
優しく触れる温もりが、ささやきと共に降りてきた。
跳ねるように起きあがり、彼はそのままの姿勢で目を見開き硬直する。
「泣かなくていいのよ。ミシェール」
包み込むように優しい微笑みと、涙を拭ってくれる掌。
信じられない。
あそこは、目が眩むほど高く切り立った崖だった。
「リュンヌ……?」
「幽霊じゃないわよ」
一つの傷を負った様子もなく、確かな温かさを纏って、少女は静かに佇んでいた。
今までの、人形のような彼女ではない。
既視感を覚える。
その正体を、彼は今度こそ確信した。
「怪我はないのね? よかったわ」
「どうして……」
力が抜ける。頭が真っ白だ。言葉が一つきりしか形になってくれない。
「もう時間がない。すべて話すわね」
軽やかに少女は窓に歩み寄り、重く夜闇を遮っていたカーテンを左右に開く。
まばゆい銀が流れ込み、ミシェールは目をすがめた。月が、藍色の天を覆い尽くすほどに大きく輝いている。
「見て、ミシェール」
厳かに言われ、彼は恐る恐る目を開ける。
息を呑んだ。
「リュンヌ……その身体……!」
―― 空気にさらされ、紙の上に踊る線は徐々に黒へと変じていく。指先から流れ出したときには鮮やかな真紅だったのに。――
「しかたがないの。決まっていたことなんだから」
月光の見せる幻ではない。夢に惑わされているわけでもない。
なのに、小柄な少女の身体は、銀色の闇に溶けていこうとしている。
「時の先へ力を送る魔術のこと、覚えてる?」
――混じり合う二色で描かれるふっくらとした頬、大きな目。口元はいたずら好きの子供のように少し端が上がっている。愛らしい少女だ。――
フェオドールがいつか見せてくれた力だ。思わず胸元を鷲掴む。
「私がそれなのよ。命の宿る血を媒体に、魔術と強い想いを込められて、ずっとずっと遠い時の彼方へ送られた。あなたのために」
――できあがった絵を少し手元から離し燭台の灯にかざして眺め、女は満足げにうなずいた。絵心のない自分にしてはよく描けている。――
リュンヌは微笑んでいる。
この笑顔を、確かに知っている。
――長時間同じ姿勢でいたため、背中から肩にかけてが凝り固まっている。大きく伸びをして上へと反った視界に、濡れたような銀の光が飛び込んできた。――
「未来のあなたが視えたから。あなたを守りたくて、彼女は……アンヌは私を生み出し送り出したのよ」
透けていく愛らしい顔に、寂しげな笑みが浮かんだ。
――真円の月。――
「母さん」
よく似ている。あの人に。
――女は、目を細めた。――
銀が、月が、彼女を溶かしていく。
柔らかな寝台が、駆け寄ろうとする彼をわずかに阻んだ。
いってしまう。
――あとはお願いね。――
「私はアンヌでもある。だから、一緒にいられて楽しかった。あなたの役に立ちたかったの。あなたが自分から目を背けずに、生きていくことができるように」
手を伸ばす。
淡い光の中、彼女の存在を探した。
「待って……」
触れたものを、強く握る。今度こそ、離さずに。
なのに止められない。どうにもできない。
「駄目よ。もう駄目なの。ごめんなさい」
どうして、こんなにもこの少女は強いのだろう。
薄れていきながら、微笑んでいられるのだろう。
月光が、翳っていく。
「もう大丈夫よ。あなたは逃げなかった。だから……一人でもきっと歩いていける」
消えていく。声が、月が。
「あなたは自分を受け入れた。その力を、もう二度と恐れることはないわね? 胸を張って、信じていくといい」
リュンヌの存在が。
「いきなさい、ミシェール」
沈黙が部屋を呑み込む。夜空の雲がほんの刹那月を遮り、またゆっくりと流れていく。
雨のような銀は、青年の姿だけを柔らかく縁取っていた。
季節は、とうに夏を過ぎようとしている。
鮮やかさを失っていく木々を、シャルルは窓からぼんやりと眺めていた。
「これが、ミシェール・ブランの描いた絵ですか」
今日彼の下を訪れた客人は、ぽつりと呟いた。彼は身体をねじり、顔だけで振り向いた。
「ああ。部屋に飾るような絵をほしいといったのを覚えていてくれてね。王宮の森を描いてくれた。見事なものだろう?」
「本当に」
壮年の男は、絵に視線を落としたまま言葉を続けた。
「彼女とよく似ていました。会うことができて、本当によかったと思います」
「そう」
シャルルの生まれる前の出来事だったから、当然その女性の顔は知らない。絵を見つめている男――ジレ侯爵が爵位を継ぐ前に恋仲だったらしいという噂を聞いているのみだ。
「私の父は、彼女に助けられた。礼を言うこともできなかったのです。……何一つ、私は彼女にしてやれなかった」
声音に滲む苦渋に、彼は気づかないふりをした。
「しかし、先代オーランシュ公爵の亡くなった後、彼女の手記を受け取ったのです。彼女が見た出来事……今度の事件についてでしたが、それに当たって彼女が息子のために執った措置と、私への協力を求める言葉が書いてありました」
「ミシェールを案じていたんだね」
「ええ。彼のために魔術書も残していました。それがずいぶん助けとなったようです」
言葉が、途切れる。
しばらくの沈黙のあと、侯爵は元の揺らがない口調を取り戻していた。
「オーランシュ公爵家は、結局領地を王家に戻すことになったのですね」
「誰も継承できる者がいなくてね。それに表沙汰にならなかったとはいえ、国家の転覆を企てたわけだから」
何も起きなかった。誰も傷つかなかった。事件があったことさえ、気づいていない者の方が多い。突然の若き公爵の死に、多少の動揺があっただけだ。
物事が移ろいゆくうちに、いつか忘れ去られていくだろう。
「私は彼が……フェオドールが好きだったよ」
再び窓の外に目をやる。風が出てきたのだろうか。木々が大きく揺れていた。
「ほんの子供の時から、感情の起伏を外へ表すことも、何かを欲することもなかった。誰かをうらやむことすらしていなかったように思う」
それは上辺だけのことだったのか。心の内では、常に滾るものを抱えていたのか。
訊いてみれば、よかった。
「ミシェールなら……それに触れることができたのかな」
目を伏せて、すぐに何かを振り切るように彼は顔を上げた。
「オーランシュ公爵領は、私が引き受けるよ」
目を瞠るジレ侯爵に向き直り、微笑んでみせる。
「これから私は病がちになり、数年後には譲位するからね。そのあとのことになるけれど」
「僭越ながら……それがよろしいかと、私も思います」
窓ガラスががたがたと音を立てた。秋を急かすような強い勢いに、国王たる青年はふと空を見上げる。
蒼穹は、少しずつ遠ざかりつつあった。




