第十五章 堕ち往くもの
ジレ侯爵が、ピエールの屋敷から出てきた。ミシェールは背を預けていた馬車から離れ、駆け寄る。
「つい一時間ほど前、公爵らしい客があったそうだ。ピエールはその男に連れて行かれたと」
「やはり……」
フェオドールが出て行ったのは朝方だった。それがこんなに時間を取ったということは、彼が持っていったミシェールの絵だけではここを突き止めるのに不足だったのか。
とにかく、まだ希望はある。
「どこへ向かったのかは?」
「これだと思います」
それらしき絵を、ミシェールはジレ侯爵に見せる。
山の入り口のようだ。ここからも見える山だろうか。
「村の者に訊こう」
絵を片手に、ジレ侯爵は駆けだしていった。絵を落とさないようにして、ミシェールもそれに続く。
それにしても、とミシェールは思う。
かつて本当にジレ侯爵が母アンヌと恋仲だったのだとしても、どうしてここまでしてくれるのだろう。
息子の自分のためにも力を尽くしてくれるような、誠実な人物だというだけのことだろうか。そもそも、彼はいつどうやってフェオドールの動向を知ったのだろう。
侯爵の精力的な聞き込みの結果、問題の場所は隣の村とを隔てる山らしいということがわかった。侯爵は馬車の馬を一頭はずし、一足先にそこへ向かうことにした。
ミシェールは馬に乗れないので、倒れそうになりながらだんだん悪くなる道をただ走った。
空が暗い。それほど遅い時間でもないだろうに、もう夜になってしまったかのようだ。
ぽつ、と首筋に何かが落ちてくる。と思う間もなくそれはさらさらと、しめやかに周囲を覆い始める。
雨だ。
やわやわとした霧雨は、しっとりと木々を濡らしていく。村で譲ってもらった雨具は古びて心許なく、首筋を流れる冷たいものにミシェールは肩を縮めた。
足を止める。侯爵が先ほど駆っていった馬が、木に繋がれていた。
馬の向こうを見やる。山へ入る登り道になっており、ミシェールの絵が正しければ山肌に沿ってさらに細くなっていっているはずだった。馬では危険だと判断し、ここへ置いていったのだろう。
彼は、山道に入っていった。
雨がさらに勢いを増す。
ぬかるんだ道に足を取られ、思うように進めない。前髪を濡らす雫を払い、彼は何気なく足下を見る。
ひどい失敗をしたと気づいた時には、遅かった。
遙か下に木々がある。雲と雨が周囲を取り巻いていて、突風に煽られて身体が傾いだ。
「ミシェール!」
ぐいと引っ張られる。岩肌に背がぶつかり、きつく目を閉じた。
「駄目よ。深呼吸して。大丈夫だから」
少女の声。
目を開けて、想像通りの姿を見つける。
「リュンヌ」
なぜ彼女がここにいるのか、どこから来たのか。
彼は問わない。おぼろげながら答えがつかめている。
今、彼女の声を聞いたから。
彼女の言葉に従い何度も深い呼吸を繰り返しているうち、何とか冷静さを取り戻せた。
肩が冷たい。熱を奪われた頬を拭い、彼は慎重に身を起こす。
「ごめん。行こう」
大地はますます遠ざかっていく。けれど前だけを見て、雨を払って進む。
何かが聞こえた。微かに。
「悲鳴?」
続けてもう一度。確実に人間の声だ。
歯を食いしばり、足に全霊を集中させて登っていく。
ぱっと目の前が広くなる。
雷鳴が轟いた。
いつの間にか、そこは山の頂だった。ぬかるみに男が倒れ伏している。服装から、ジレ侯爵と知れた。
尻からへたり込んでいる小太りな男の腕を、黒衣の青年がしっかり捕らえている。ゆっくりと、黒髪が揺れる。
ミシェールの全身が震えた。
頬と目頭が熱くなる。ほんの一日程度しかこの人と離れていなかったはずなのに、黒の双玉をひどく懐かしく感じた。
自身を責め、嘲笑う心がある。あんな仕打ちをされても、ルイーズの末路を見せつけられても、完全に彼を憎めない。
「フェオドール様……」
彼の表情が、変わる。
「なぜここへ来た?」
今まで見せたことのない、穏やかで優しい顔。静かな声。雨の音を寄せ付けず、言葉は明瞭に届いた。
「僕は……」
答えようとして、唇がわななく。
シャルルの秘密が公になると、国が揺らぐから。
オラニエ男爵の立場が崩されるから。
アラゴン伯爵に聞かされ自ら暴いてしまった、フェオドールの過去が恐ろしかったから。
ルイーズの死を、目の当たりにしたから。
どれを思い浮かべても、その端から虚しく頭の中に消える。間違いではないが、自分にとっての真実ではない。
睫毛に、水滴がぶつかった。視界が歪み、息を詰める。
フェオドールが見えなくなる。
身体がふらつき、反射的に前に踏み出した。
「ミシェール!」
ジレ侯爵が声を上げる。急いで目元を拭い、彼の姿を探す。
彼は、ミシェール達に完全に向き直っていた。ピエールであろう男はすでに解放されていたが、腰が抜けてでもいるのか逃げようというそぶりすら見せない。
赤子を入れ替えた男。その言葉一つで、国を混乱させてしまうほどの重要人物。
どうして。
「どうして……どうしてこんなことを?」
子を差し出した父の苦悩を蒸し返し、罪もない少女を殺めて。
「何を望んでいるんですか? 何がほしくて、あなたは僕を連れ出したんですか?」
フェオドールの口から、どうしてもそれを聞きたかった。
青年は、小さく笑いを漏らす。
「まさかそれを訊くためにわざわざ追ってきたとは言うまいな?」
「……そうです」
フェオドールは目を瞠る。さらに一歩、今度は紛れもない自分の意志で踏み出す。
彼に、近づいていく。
リュンヌが後ろから制止するようにミシェールの袖を引いたが、かまわず進んだ。
「教えてください。僕はあなたが知りたい」
雨と雷鳴に負けないように、一言一言をしっかりと紡ぐ。
彼を恐れたのも本当だ。ルイーズの命を奪ったことも、哀しいと思う。けれど。
「あなたが受け入れてくれたから、僕を認めてくれたから、僕は逃げずにいられるようになった」
こうして、ここに辿りついたのは、彼がいたからだ。
だから。
フェオドール・セイン・デ・オーランシュという人を、識りたいのだ。
その心を。想いを。
ふと、既視感を覚える。いつかどこかで、こうして彼と向き合っていた気がする。
――お前は、私を受け入れるか……?――
その問いに、もう答えを出していた気がする。
手を伸ばせば触れられる距離で、ミシェールはじっとフェオドールを見つめていた。彼が返してくれるであろう何かを、待っていた。
どんなときも逸らされなかった黒い瞳は、叩きつけるように強くなる雨を厭うように、静かに伏せられた。
「何をしたかったと……問われても困るな。理由があったわけではない」
天が、轟と鳴った。
「何を得たかったわけでもない。壊したかったわけでもない。私の手に何かがあったことなど一度もなかった。欲したことも、ない」
手が伸ばされる。指先が、頬に触れた。
ミシェールは、動かなかった。
黒の双眸が。
彼を映している。彼だけを。
「だが……」
フェオドールの逆の手が閃いた。
「そうだな、お前は――」
ひときわ大きく空が鳴り、大地すら震えた。
雷光に目を灼かれ、きつく瞼を閉じる。
「駄目よっ!」
少女の悲鳴。
鈍い音。
ひどい耳鳴り。
目を開ける。
リュンヌと、フェオドールが、虚空に舞っていた。
手を伸ばし、飛び出す。
「危ない!」
後ろで誰かが声を上げる。
泥に足を取られて転んでしまう。
届かない。
金の長い髪が、風に踊った。
黒の双玉は。
「ぁ……」
そこは、崖のように切り立っていた。
遅れてすべてを理解する。
リュンヌがフェオドールにぶつかっていった。体勢が崩れて、そして。
守ってくれた。
ミシェールを貫こうとした、短剣から。
喉の奥から、叫びがほとばしった。
隣の部屋から出てきたジレ侯爵に、アラゴン伯爵は無言で問いかけた。彼も同じく黙ったまま首を振る。
無意識に溜息が漏れた。このあとのことをどう始末していけばいいのか頭が痛い。公的にも、私的にも。
侯爵が、気を失ったミシェールを運んできたのは夜半過ぎだった。ひどく錯乱しているので強引に眠らせたという。二人ともずぶ濡れだったので着替えさせたが、ミシェールは高熱を出したのだった。
事の顛末は一通り聞いている。オーランシュ公爵の死も。
「……大丈夫だろうか」
呟くと、ジレ侯爵が顔を上げた。だがやはり何も言わない。
「雨が上がらないな」
伯爵も、それきり口をつぐんだ。




